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2026年10月29日,タイ・バンコクで開幕した「gamescom asia x Thailand Game Show 2026」で,カンファレンス初日を飾ったのはJohn Romero氏の基調講演「Why We Still Make Games」だった。Romero氏はid Softwareの共同創業者として「Wolfenstein 3D」「DOOM」「Quake」を手がけ,現在はアイルランドのRomero Gamesを率いている。
なぜ今もゲームを作るのかと聞かれると,作ってきたゲームそのものを思い浮かべるのだという。1本作るたびに何かを学び,次の1本を作りたくなる理由が生まれていった。
その繰り返しを説明するには,作品を順に見ていくのがいちばんだ,というのがRomero氏の考えだった。
最初のゲームは,BASICを覚えるために作ったものだ。コンピュータにできることを1つ覚えると,それをゲームにする方法を探し,ゲームを作ることが,言語の次の機能を学ぶ理由になった。
テキストアドベンチャーでは,言葉だけで世界を作れることが面白かったそうだ。プレイヤーが何かを試すたびに,プログラムがどう応えるかを自分で決めなければならない。
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アクションゲームでは課題が変わった。動いたり避けたりすることが遊びとして成り立つほど,コンピュータを素早く反応させなければならない。ただ,プログラミングで見つけたことの結果を,すぐに遊んで確かめられるのが楽しかったという。
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Apple IIが採用していたCPU「6502」のアセンブリ言語を覚えると,さらに可能性が広がった。マシンの動きにずっと近いところでプログラムを書けるようになり,速いルーチンが書ければ画面の中で起きることを増やせる。
それがそのまま,次に何をデザインするかのヒントになったという。
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やがて作品が雑誌に載るようになり,自分の作ったものが誰かに届くようになった。ディスクマガジンでもゲームやプログラミング用のユーティリティを出しており,ツール作りはゲームとは別の創作上の課題として楽しめたそうだ。
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1989年末までに作ったゲームは69本,ツールは19本にのぼる。かなりの数だ。
数そのものより,それだけ違う問題に取り組んだことに意味がある,とRomero氏は話した。迷路,プラットフォーマー,横スクロールシューティング,ダンジョン探索など,ジャンルも幅広い。
最初の10年は,アートもデザインもプログラミングもサウンドも1人でこなし,マーケティング的な仕事までしていた。プログラミング上の判断がデザインにどう響くのか,音がアクションの手触りをどう変えるのかを,早い時期から全体として見られたのは大きかったという。
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2社目のInside Outでは,「Might and Magic II」をコモドール64に移植している。
既存のゲームで何が大事なのかを理解し,別のマシンの性能と制約のなかで同じ体験を届ける。ゲームを分解して別の場所で動かすことも,学び方の1つだったわけだ。
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3社目のIdeas from the Deepで4本を出したあと,Romero氏はid Softwareの設立へと進む。
PCへの移行ですべてが変わった。アセンブリで書くよりずっと速く開発でき,アイデアを遊べる形にすることに,より多くの時間を割けるようになったからだ。
id Softwareでは,ツールとゲームプレイのコーディング,レベルデザイン,サウンドデザインに加え,ゲームデザインとエグゼクティブプロデューサーも担った。新しい横スクロールの技術によって,IBM PCでもなめらかにスクロールするプラットフォームゲームが作れるようになり,これがPCにできることへの世間の見方を変えたという。
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技術革新で新しいことができるようになり,次にそれを使うゲームが生まれる。Romero氏が興奮したのは,いつもこの順番だった。
プラットフォームゲームではジャンプの感覚がゲーム全体の手触りを左右し,キャラクターの動き方を変えるだけで足場の並びが面白くなる。秒単位のゲームプレイとコアループだけに集中した時期だったそうだ。
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当時は1本をおよそ2か月で作っていた。1991年には2本を並行して開発し,1年で13本ものゲームを出している。
そこから3Dの実験が始まり,「Hovertank One」で一人称視点の空間を動き回る感覚を探った。続く「Catacomb 3-D」は,壁にテクスチャを貼った高速アクションの3Dシューターとしては初めての作品だったという。
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1992年の「Wolfenstein 3D」で,id SoftwareはFPSというジャンルの立ち上げにかかわった。
一人称視点では,見えているものと,まだ見えていないものがアクションの一部になり,物を置く場所を少し変えるだけで,プレイヤーが部屋に入るときの動き方が変わる。技術上の制約があったからこそ,レベルデザインが楽しい挑戦になったのだという。
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1993年には「DOOM」を作った。空間そのものがアクションを面白くする役目を多く担えるようになり,プレイヤーがいつ何を理解するのかを,レベルデザインで形作れるようになったのだ。
目の前の戦闘と,マップ全体の道のりを同時に考えられたという。
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開発はNeXTSTEP上で行い,MS-DOSで動かすクロス開発の形を採った。ゲームを作るマシンと動かすマシンをつなぐワークフローの構築も,ゲーム作りのなかにあるもう1つの技術的な課題だったわけだ。
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クリーチャーや武器の模型をビデオカメラで撮って取り込むことで,アートの制作も速くなった。
ツールが良くなれば試行錯誤が速く回り,そのぶんゲームの中身に時間を使える。Romero氏は,ほかの人の作業を楽にするものを作るのが好きだったそうだ。
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「DOOM II」については,「DOOM」のデザインは完璧だったので変えずに足すことにした,と振り返った。それが正しい判断だったという。
同じころにはRaven Softwareと組み,「Heretic」と「Hexen」に制作とゲームデザインでかかわっている。別のチームが自分たちの想像力をこの種のゲームに持ち込むのを見るのは,なかなか楽しかったようだ。
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「Quake」では,完全な3Dの世界がレベルデザインにもマルチプレイにも新しい自由をもたらした。マウスで視点を動かす操作は3Dゲーム全体を変え,見ることと狙うことをデザインの軸にできるようになった。
インターネット対戦では動きを読み切れない相手を想定することになり,いつも誰かがもっとうまい遊び方を見つけてくるので,学ぶことに終わりがなくなったという。
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Romero氏は「Quake」でレベルエディタのQuakeEdを書き,効果音の半分を担当し,ゲームデザインとレベルデザインを指揮したうえで,自らも多くのレベルを作った。
エディタを作り,それを自分で使えば,どこが役に立ってどこが邪魔なのかが正確に分かる。2つの仕事は互いに影響し合っていたのだ。
プレイヤー側でも,MODやスピードラン,対戦,ゲームのエンジンで撮る映像作品(マシニマ)といった形で,出荷されたレベルのはるか先まで遊び方が広がっていった。
デスマッチの上達には天井がないように見え,空間を覚えて操作を磨いても,さらに上がいることを教えてくれる相手に出会う。作ったものの周りに育っていく体験に自分も加われることが,作り続けたい大きな理由になったという。
次の会社,Ion Stormでは,120人の開発者が4本のゲームを同時に作っていた。複数のチームが別々のゲームを追いかけられる可能性は大きく,同時に会社の運営や人を支える仕事について学ぶことも多かったという。
Romero氏は,キャリアで最悪のトラブルをIon Storm時代に経験したと語った。
仕事を愛していても責任が軽くなるわけではないし,物事がうまく運ぶとも限らない。経験は,それによって自分の判断を変えたときにだけ役に立つのだという。
ゲームを好きでい続けても,キャリアのどの時期も順調とは限らない。Ion Stormで過ごした数年間は,今も作り続ける理由の一部なのだという。
その時期に生まれたのが「Deus Ex」だ。Romero氏にとって重要だったのは,Warren Spector氏とチームがこのゲームを作り上げられるようにするための判断だったという。
Spector氏にした約束は,のちに難しい判断を迫られたときにも守り通した。ゲームプレイのコードを書くのとは別の種類の貢献だが,ゲームに与える影響は大きいという。
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ほかの作り手に,その人ならではのものを作る余地を与える価値も,Deus Exから学んだという。自分1人では行けなかった場所へゲームを連れていってくれるし,すべてを自分の手で作らなくても深い満足は得られるのだと。
次にRomero氏が向かったのはモバイルだった。iPhoneが登場する5年前,Romero氏はMonkeystone Gamesで携帯端末向けのゲームを模索しており,「Hyperspace Delivery Boy!」もその1本だ。
小さな画面では見せられる量が変わり,操作が違えば動作も変わる。PCでうまくいったことが手のひらでも通用するとは限らず,画面の大きさや操作方法,遊ぶ場面といった,慣れたはずのデザイン上の問いが再び面白くなったという。
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Romero氏が渡り歩いてきた会社の多くで,そばにいたのがTom Hall氏だ。SoftdiskからIon Storm,Monkeystone Games,Romero Gamesまで,何十年にもわたる付き合いになる。
同僚のアイデアですぐに試したくなることもあれば,難しい問題も一緒に解くだけで楽しくなることもある。共有された興奮は,翌日また仕事に戻る強い理由になるそうだ。
Monkeystoneのあと,2人はMidway Gamesへ移り,Romero氏はコンソール向けのアクションゲームに取り組んだ。シューターとは違うスタイルのアクションで,どの経験が持ち越せて,どれを変えなければならないかを見つけるのが楽しかったという。
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続いて設立したGazillion Entertainmentでは,子ども向けの大規模なMMORPGを目指した。
遊んでいるうちに自然と数学に触れられるしくみを組み込んでいたが,ライセンスした技術に問題があり,断念せざるを得なかった。技術の選択がゲームの将来をどれだけ左右するかを,つらい形で学んだわけだ。
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次の舞台はFacebookのソーシャルゲームだった。人のつながりがすでにある場所なので,ゲームとの出会い方や友人の誘い方が変わる。
Romero氏が手がけた「Ravenwood Fair」は大ヒットし,リリースから半年で月間2500万人が遊ぶまでになった。
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その後も新しいソーシャルゲームに取りかかったが,2012年にバブルがはじける。Romero氏はiPhone以降のモバイル市場へ移ったのだが,Monkeystoneのころとは端末も客層も大きく変わっており,学ぶことはまだ多かった。
同じ分野に戻っても,まったく新しい探検のように感じられるのが,この業界の驚くべきところなのだという。
2015年,Romero氏はBrenda Romero氏とアイルランドへ移り,コアゲームに焦点を当てたRomero Gamesを立ち上げた。
10社目の起業で,これまで6本のゲームを出し,現在はRomero氏がゲームディレクターを務める7本目の新作シューターを開発中だ。ディレクションは,ツールもゲームプレイもレベルもサウンドも,これまでの経験をすべて1つにまとめる仕事なのだという。
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振り返ってみると,新しいマシンだったり,新しいジャンルだったり,新しい責任だったりと,会社や作品が変わるたびに違う種類の興奮があった。
よく知っているジャンルでも,チームやアイデアが違えば新しく解くべきことが出てくる。それが今もゲームを作り続けたい理由なのだという。
一方でRomero氏は,業界がいま,自分のキャリアのなかで最も厳しい時期を迎えていることにも触れた。何年も続くレイオフと先行きの不透明さで,多くの才能ある人がゲームを作り続けにくくなっている。
人々が直面していることを抜きにチャンスの話はしたくない,と前置きしたうえで,チャンスは今もあるものの,均等に訪れるわけでも困難を消してくれるわけでもない,と続けた。
だからこそ,人とつながることが大切になる。紹介ひとつ,会話ひとつが誰かの次の一歩につながる時期だ。
一緒に働いた人と連絡を取り続け,興味のあるものを作っている人と知り合い,知っていることを分け合い,手伝えるところは手伝う。前向きな人たちのそばにいることも勧めていた。
小さなゲームでも,動かしてみたいアイデア1つでもいいから,今夜から始められる。
ゲームを作るのに許可はいらない,自分もそうやって始めた,とRomero氏は語った。BASICを覚えたところから,1つのことが次へつながっていったのだ。
何十年経っても,もっと学びたくなる挑戦が見つかる。次の1本を作って学べることにまだ終わりはなく,好きなことをやめる理由はない,とRomero氏は講演を締めくくった。













































