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レトロンバーガー Order 44:クソゲーって何だろう。「星をみるひと」のSwitch版をプレイしながら例のいざこざをみるひと編
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印刷2020/08/15 00:00

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レトロンバーガー Order 44:クソゲーって何だろう。「星をみるひと」のSwitch版をプレイしながら例のいざこざをみるひと編

そういえば,このバナーの“R”の字はアレとして伝説的なヤーツーがモチーフです
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 クソゲーって何でしょう。

 歴戦のゲーマーなら「期待して買ったゲームがクソゲーで落胆」ということは何度も経験してきたはずです。そんな経験など無いというなら,たぶんチャレンジを欠いた人生か極度の味音痴かのどちらかです。クソゲー・エクスペリエンスは,それで得た哀しみや怒りこそがゲーマーとして生きてきた証なのです。あれっ話が終わった……?

 という話をするのも先月,いろいろあってゲームライター界隈の一部が「クソゲー」という単語を使うことの是非について盛り上がっていたのです。なお筆者は「まーた学級会みたいなハナシしてんな……」と思いつつ外野から眺めていました。奇しくもそんなタイミングで7月30日にシティコネクションから発売されたのが,Nintendo Switch版の「星をみるひと」でした。

 シティコネクションは言葉巧みにアレとしての言及を避けていますが,一般的に「星をみるひと」はファミリーコンピュータを代表するアレの1つとして認知されています。そんなわけで今回は,「クソゲーって何だ?」的な話を,「星をみるひと」をプレイしつつやっていきましょう。


「星をみるひと」公式サイト



星をみるひと,星をみるひとをやってみるひと


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 というわけで,Nintendo Switch版「星をみるひと」です。リメイクやリマスターなどではなく新機能を追加しての移植なので,当然ながら導入デモなどもなく,ワールドマップ上からいきなりスタートします。ぶん投げな導入ですが,当時としては珍しくありません。

ストーリーの導入とか舞台設定とかは,メニュー画面の「おまけ」から取扱説明書を読みましょう
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 マップパーツはなかなかアバンギャルド。辛うじて海だ,森だ,平野というあたりは分かるのですが,何なのか分からないエリアもゴロゴロあります。なお筆者は攻略サイトを見るまで,森エリア内のダンジョンが森を表現していると認識していませんでした。

ダンジョンに入ると,マップパーツが何を意味する物なのか,だいたい分からなくなります。あとアイテムの取得メッセージは物によって出たり出なかったりします
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 本作の問題点としては,“まむす村”がワールドマップ上に表示されていないことや,イベント地点がマップパーツで分からないところが挙げられたりもしますが,近年のクリック式脱出ゲームと比べたら「無くはない」くらいのものではないでしょうか。マップのつながりについても,「キャンセルしますか?(はい / キャンセル)」みたいなクソUIに比べれば可愛いものです。でもプレイ自体は実際苦行なので,仮に「これをノーヒントで探索しまくって解け」と誰かに命じられたら,そいつの鼻にグーを叩き込みますけど。

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 とりあえず敵と戦えなければどうしようもないので,武装を整えるべく,村の周辺をうろついて敵を倒してお金を集めてみます。悪名高い「かりう」での実質的な一撃死や,HPが低くなると逃げ出すという敵ルーチンがあるので,戦闘はなかなかもどかしいものがあります。小銭を集めているうちにレベルアップして,進行不能なマップパーツを飛び越えての移動ができるようになりましたが,説明は皆無なので,どのタイミングで習得したのかサッパリ分かりません。何なんですかこれ。

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ザコをポチポチ倒していきます。敵を倒せば普通に経験値とお金を入手できるだけマシですね
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気付けばスイーッとマップパーツを飛び越えられるように

 装備が整ったのでシナリオを進行させていくと,最初の仲間・しばが仲間になりました。すでにガンガン育ってステータスがインフレしている主人公・みなみと比べたらモヤシもいいところなので,しばらく鍛えてあげましょう。なお,「まむす村を出ても,でうす村を出ても,森エリアを出ても,ワールドマップのスタート地点に戻る」などの異常性に対してはピキピキしながら耐えていましたが,お金がパーティ共有でなくキャラクター固有であり,みなみがいくらお金を持っていてもしばの装備を購入できないと知ったときには,素で「ハァッ!?」と声が出ました。そのほかESP能力の種別とステータスのひとつに“じゃんぷ”という同名・別概念の項目があるなど,ゲームデザイン以前の何か重大な問題が節々に感じられます。ホント何なんですかこれ。

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 「覚悟を決めていなければ耐えられない」ならまだしも,覚悟を決めた上で無数の不意打ちが襲い掛かってくる。「星をみるひと」は,修羅道みたいなゲームです。とはいえ,本作が1987年10月にホット・ビィというパブリッシャから発売されたファミリーコンピュータ用ソフトであったことは考慮すべきでしょう。

 1983年に発売されたファミリーコンピュータは,もともとサードパーティという概念が想定されておらず,任天堂は自社ソフトのみを供給するつもりでした。ですが,独自に解析を行っていたハドソンとナムコ(※)が任天堂と契約を締結し,1984年にソフトの販売を開始。1985年にはジャレコやタイトーなども後を追って参入し,市場を拡げていきます。

※以降も含め,名称はすべて当時のもの。

 そして1986年にはアーケードで活躍する大手メーカーだけでなく,PCゲーム畑からデービーソフト,機械製造畑からトーワチキなども参入します。その中に広告代理店から独立したホット・ビィの姿もありました。そもそも家庭用ゲーム自体が,まだまだ黎明期だったわけです。

 それに,1987年は国産RPGも発展途上でした。PC-8801用ソフトの「ハイドライド」「夢幻の心臓」「ドラゴンスレイヤー」で国産RPGの形というものが固まり始めたのが1984年「ドラゴンクエスト」で革新が起きたのが1986年です。1987年は1月にファミリーコンピュータで「ドラゴンクエストII 悪霊の神々」,6月にPC-8801で「イース」,9月にPC-8801/MSXで「デジタル・デビル物語 女神転生」など多彩な傑作RPGがリリースされましたが,それを作れたのも業界のトップランナーと言えるデベロッパだからこそ。大手でも,タイトーから1987年6月に発売されたファミリーコンピュータ用ソフト「未来神話ジャーヴァス」だってアレでしたし,まして中小デベロッパの手がけたタイトルに,あまり厳しい目を向けるべきではないでしょう。

 こういった時代背景を踏まえて「星をみるひと」を見てみると,理不尽に感じられる謎解き要素も,PC-8801時代のアドベンチャーゲームのテイストを「ドラゴンクエスト」を参考にRPGへ落とし込んだと思えば,納得できないこともなくはないような,そんな気がしないでもないこともなくなくもないような,思わなくもなくなくないような,みたいな感じでもないような,ないこともなくなくもななな納得できるかコラァ!! そういった時代背景をさっぴいても限度ってモンがあんだろ。限度ってモンが!!

 設定やゲームデザインから「やりたいこと」の面白さは察せられますし,SFベースの舞台設定やマルチエンディングの採用などは当時として斬新です。「レベルを上げて移動技能を習得すると,それを使ったパズルのクリアで次のエリアへと進める」というのも,言ってみればメトロイドヴァニア的なマップ構成であり先進的です。ただアイデアは褒められるのですが,それを表現するための演出力と技術力があまりにも足りていません。キャラクターグラフィックスや音楽は素直に高いクオリティを発揮しているのですが,それで薄めるにはアレっぷりが濃厚すぎます。

キャラクターグラフィックスのクオリティは高いし,センスも良いのですが……
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 ましてファミリーコンピュータ版「星をみるひと」の2か月後には同プラットフォームで「ファイナルファンタジー」(超高速スクロール!)発売,セガ・マークIIIで「ファンタシースター」(3Dダンジョン!)発売,3か月後にはPCエンジンで「邪聖剣ネクロマンサー」(美麗グラフィックス!)発売ですからね。頭を抱えて「それらほどじゃなくても,もっと何かあったはずだろ何かがよォ!!」と叫びたくなります。

 ファミリーコンピュータ版「星をみるひと」の定価は5300円(消費税法導入前)。調べたところ1987年における国家公務員の大卒初任給が12万3600円だったそうですが,そんな時代にこんなもんを定価で買ってしまったら小学生は泣きます。そしてグレます。男子なら明日に怯えながらチープなスリルに身を任せられますし,女子なら車道でダンスしながらクルマのライトにkissを投げます(1987年感)。

 ただ筆者および本記事読者の9割以上は,1987年の小学生ではなく,2020年のいい歳こいてピコピコやってるクソ大人と思われます(残りの1割未満は女子高生だとか?)。「面白い」と言えるものが,マーベル・シネマティック・ユニバース作品のようなヒロイック&エキサイティングな世界だけでなく,アサイラム製のZ級サメ映画にあることだって知っているはずです。いい感じに言えば,苦味も旨味と享受できるような味覚が培われているはずです。

 喜劇王チャーリー・チャップリンは「人生はクローズアップで見ると悲劇だが,ロングショットで見ると喜劇だ」と述べました。同様に,主観的な自分がクソゲーに苦悶している様子も,自己客観的に眺めると,並のゲームを超えた面白さがあります。それに,どんな喜劇でも悲劇でも,それを名作にするか駄作にするかは演者(=プレイヤー)次第。ひとつのゲームプレイが拍手でなく罵声を浴びせられるものと化したなら,それはプレイヤーのせいなのです。言うなれば,クソゲーとはゲーマーの“格”を問う鏡というわけです。

 なので,ゲーマーの“格”を試してみたくなった人は,ぜひとも「星をみるひと」をプレイしてください。たのしいですよ。無数の障害を廃して,攻略法を突き詰め,ゴールへと辿り着く。この道のりは,ソウルライクなゲームに通じるところがあります。ゲーム内のバトルよりもプレイヤー自身とゲームシステムの戦いが大部分の比重を占めるので,リアルライフが削られますが,ある意味すごくおもしろいです。筆者的に「機○○○○○○ム ○○○○○ー○ー○」は「皆はこんなんやらんでいいよ……」となるアレっぷりでしたが,「星をみるひと」は「お゛前゛も゛や゛れ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛」となるだけの激エモなアレっぷりです。タノシイデスヨ

 Nintendo Switch版はクイックセーブ巻き戻しといった便利機能が搭載されているため,リアルライフを減らしながら「遊べないこともない」レベルになっているのが尚更タチ悪い(褒め言葉)ですね。まるで口当たりが滑らかな毒薬,きらびやかなネオンサインで彩られた呪怨ハウス,安くてボリュームたっぷりな駿○屋の福袋です。

充実したオプション! 壁紙を設定して画面を華やかにすることもできますし,プレイ中は移動速度の倍速化も可能です(それでも遅い)
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カートリッジおよび取扱説明書の画像や,壁紙として収録されている投稿ファンアートのギャラリーなどを閲覧することも可能です
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あえてクソゲーを買うひと,クソゲーとともに歩むひと


 クソゲーの楽しみ方にも色々な形があります。
 やりこみ,RTA,崇拝,嘲笑……。

 そもそも1980年代以前だと,「クソゲーを楽しむ」ということ自体,まずありえない話でした。先述のように,初任給が12万円台でもおかしくない時代に「出来が悪い5000円前後のもの」を集めようとするなんて,余程の悪趣味です。ましてアルバイトもできない小中学生にとって,「つかまされた」クソゲーは悪しき存在でした。

 そこから時代が下ると転換期が訪れます。そんな世情を象徴するものの1つであると筆者が考えているのが,双葉社の「コミック ファミコン王国」で1993年12月(創刊号)〜1994年10月(最終号)にかけて連載されていた「パラレルぱとろーるポプラ」(著:みた森たつや)という漫画です。同作の主人公は「好きになるゲームがクソゲーばかり」で,大量のクソゲーを所持しているという設定でした。近年のクソゲーマニア像とはちょっと違いますが,“クソゲーのキッチュな魅力”にフォーカスしたコンセプトだったことは確かです。

 1990年代に入るとゲームソフトの評価基準や中古市場が確立されたうえ,新規市場ゆえの供給過多もあってクソゲーはワゴンセールで叩き売りされるようになりました。5000円ではたまったものじゃないクソゲーも,50円なら話は変わってくる。クソゲーは叩き売りされることによって「安くてユニーク(クソだけど)」という魅力を発揮し始め,1994年には漫画の題材にされる程度にまでクソゲー趣味が確立されたというわけです。クソゲーファーストシーズンの到来です。

 1994年の末頃にはPlayStationが発売されました。CD-ROMの大容量や3Dグラフィックスを活用した大作がゲームの概念自体を塗り替えていく一方で,活用に失敗してアレになったゲームや,ソニー・コンピュータエンタテインメントが広範なデジタル企業にソフトを求めたゆえのアレなゲームも数多く生み出されています。そんなPlayStation時代のクソゲーが流れ込んだことで,中古市場に根ざしたクソゲーカルチャーは華やぎました。その一端を示すのが,1998年に太田出版から刊行された,箭本進一氏らの共著による「超クソゲー」……クソゲー専門書籍の誕生です。

 2000年代に入ると,クソゲー事情はちょっと違った様相を呈してきます。大手メーカーのクソゲーが目立つようになってきたのです。家庭用ゲームのニーズが安定し,アニメなどを原作としたタイトルが流通するようになって以降,「キャラゲーはヤバい」というのはすぐに定説となりましたが,ゲーム自体がIPとして自立するようになったため,原作無くしてIP頼りのクソゲーが生まれる時代となりました。クソゲーニュージェネレーションです。2004年には匿名掲示板の有志によるネタ企画「クソゲーオブザイヤー」が始まっていますが,初期の受賞作を見ても,この「大手メーカーのクソゲー」に多くの人がガッカリしたのだと感じられます。

 また,2000年代初頭は「いかに中古クソゲーを発掘して個人サイトに載せるか」がクソゲー探索の醍醐味で,第三者が消費しやすい嘲笑的,もしくは盲信的なテキストが主流でした(「燃えろ!!プロ野球」の収集家などが有名になりましたね)。その後,匿名掲示板の利用者が増えてクソゲーコミュニティが形成されてくると,「いかに新作クソゲーを発見してコミュニティで発信するか」という楽しみ方が発生し,意見を共有しやすい評論的なテキストが好まれるようになります。クソゲーを探すこと自体も,2000年代のうちは「早くも値崩れしたタイトルをワゴンセールで探せ!」みたいなノリでしたが,近年では「定価で買ってクソっぷりを余さず体感しよう!」というこじらせ方をしている人がいるなど,先鋭化しています。

 さらに,クソゲーの魅力が世の中へ浸透していく中で,かつては単なる蔑称だったクソゲーを,あえて自称するゲームも現れました。「グルーヴ地獄V」「絶体絶命でんぢゃらすじーさん 〜史上最強の土下座〜」「RPGシューティング 電子艦隊ナック」など……とはいえ,クソゲーと呼ばれるゲームが最初からクソゲーを目指していたわけではないということを踏まえると,自虐でもない自称クソゲーはクソゲーらしからぬもの(正しいクソゲーは「オススメRPG」などを自称する)ですし,ジャレコの「スーパーマイクチャン」みたいにクソゲーを謳って本当にクソゲーだったら何の洒落にもなってないというパラドックスに陥ってはいるのですが。

奇をてらうにしても方向性ってものがあるだろうと言いたい「スーパーマイクチャン」(PlayStationソフトウェアカタログより)
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2008年にフィーチャーフォン向けアプリとしてリリースされ,iOS / AndroidやNintendo Switch(「協撃 カルテットファイターズ」に収録)への移植も行われた「RPGシューティング 電子艦隊ナック」。FCおよび同互換機向けカートリッジも少数製造されていて,画像は10周年記念イベントの大会優勝者(=筆者)に贈られたバージョンです
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 さて,歴史を振り返ってみると「クソゲーの生じる環境」は,大きく以下の2つに分けられると考えられます。


  1. プラットフォームの成長期
  2. (新規や中小のメーカーが比較的容易に参入可能となるタイミング)
  3. パブリッシャの安定期
  4. (余裕のある大手パブリッシャが弛緩したタイトルをリリースする,もしくは弛緩を避けて冒険しすぎたタイトルをリリースするタイミング)

 これらは2000年代まで交互にシーズンが来るのをセオリーとしていましたが,2000年代中頃からはプラットフォームの多様化もあって同時並行的に浮き沈みが発生しています。いつどこからクソゲーが降ってくるか分からない,クソゲーニューエイジです。

 クソゲーの発生を封じることを望むなら「新規や中小のメーカーが容易に参入できない環境」や「パブリッシャに安定が訪れない環境」を整備する必要があります。ですが,そんな環境を整備できるでしょうか? 仮に整備できたとしても,それでゲーム市場は発展していくでしょうか?

 そう。クソゲーは,ゲーム市場の新たな土壌が拓かれていくからこそ発生する「生存競争に適さない方向の偶発的進化」なのです。クソゲーを咎めることは開拓および進化を咎めることにもつながりますし,発展を称えるならば副産物たるクソゲーの存在も認めて然るべきなのです。それに,過去にクソゲーがあったからこそ,同じ轍を避けて良作が作られたという逸話もしばしば聞きます。良作・名作のみならず,クソゲーも抱いて歩いていくようなゲーマーこそ,「ゲーム自体を愛する者」と言えるでしょう(それでもクソなものはクソですが)。


クソゲーと蔑むひと,クソゲーを愛するひと


 さて,ここまでクソゲークソゲーと連呼してきましたが,今日(こんにち)の「クソゲー」とは具体的にどのようなゲームのことでしょうか。

 例えば筆者はニンテンドー3DS用ソフト「とびだせ どうぶつの森」プレイしたとき,「ゲーム内の目的が希薄で,ノルマの達成に感動が無く,“無意味な面倒”ばかりが続くゲームだ」と感じましたが,だからといってクソゲー呼ばわりはしません。これは,ちょっと筆者がアドレナリンシューターとかゾンビとか7.62×51mm NATO弾とかFATALITYとかを好きであるがゆえの,典型的な「not for me」です。あらためて言うことでもありませんが,「とびだせ どうぶつの森」は世間的に極めて高い評価を得ています。

 また,“カネを払うとババアが死ぬ!”でおなじみのPCゲーム「The Graveyard」は,純粋にゲームとして見るならば評価をつけることすら難しいものですが,一般的にクソゲー呼ばわりはされません。「The Graveyard」が持つ表現性は,ゲームであることを外れても特有の魅力を放つ方向に働いているのです。

 ゲームもゲーマーも多様化した現在では,主観的な「俺は楽しめなかった」はもちろん,客観的な「ゲームとして成立していない」でも,「それがクソゲーだ」と決められません。「バグが多いゲーム」はクソゲーとニアリーイコールですが,それだってプレイヤーが楽しみ方を見出せば,格ゲーがバスケになったり,麻雀が宇宙競技になったりと,バカゲー方面で昇華される可能性があります。

 今の「クソゲー」は,定義が曖昧なバズワードとなっています。クソゲーポストモダンです。

 ですが,明らかに「クソゲー」とされているゲームが世の中に存在します。これは何によって決められているかと言えば,「プレイヤー間の共通認識」にあるでしょう。不特定多数のプレイヤーが怒り,嘆き,落胆した経験が積み重なり,風潮がある程度固定化されたとき,クソゲーという概念が確立します。ウェットな評価基軸であるため,イギリスでは高評価にもかかわらずクソゲーとされている「ボンバザル」のようなケース「スペランカー」「バンゲリングベイ」などのように「改めて見ると良ゲーなんじゃない?」と再評価されるケース,ひどい出来なのにクソゲーとしての認知が薄いケース,「プレイバリュー豊富な『○○都○』がクソゲーってのはおかしいだろアァン!?」と筆者が言い出すケースなど,複雑な状況が発生することもあります。

 このウェットぶりは,プレイヤーの血と汗と涙によって湿っているとも言えるでしょう。最初に述べたように,クソゲー・エクスペリエンスで得た哀しみや怒りはゲーマーの生きてきた証であり,もはや単なる悪評や苦言ではなく,刻み込まれた情念によって独特の輝き(異様な黒光り)を放つもの。その輝きや先述した“キッチュな魅力”ゆえに愛されるクソゲーもあり,例えば「トランスフォーマー コンボイの謎」オマージュ作が作られたり,「デスクリムゾン」サウンドトラック発売が大きな話題になったり,「たけしの挑戦状」アプリとして復活したり,「センチメンタルグラフティ」のイベントがクラウドファンディングで資金を募って開催されたり,そのファンディングに筆者も出資したりしました。逆に,どれだけクソかつ希少でも,ド素人がツクール等で投げやりに作ったクソゲーに大した価値はありません。

 捻くれたニュアンスではありますが,クソゲーという言葉は一種のポジティブさを確かに持っていて,IPのアイデンティティになっているケースすらあります。短絡的に「クソゲーなんて悪い表現だ」と否定するのはよろしくありません。

 ただ,ポジティブな意味でのクソゲー評価は,相応の過程を経てこそ成立するものです。冒頭で述べた“いろいろあって”の火元は,端的に言えばクソゲーが持つ意味合いをうまく捉えられておらず,かつ現在のクソゲーコミュニティで好まれている評論的なテイストとはかけ離れたものでした。筆者は「表現は自由」という主義なので,“出火”自体に言うことは何もありませんが,悪手であるとは思いました。

 では,ウェットな評価が定着していないゲームをクソゲー呼ばわりするのが悪手だとしたら,このクソゲーポストモダン時代に「クソゲーっぽいもの」は,どのようにプレイすればいいのでしょうか? 答えは簡単,血と汗と涙を流すウェットな遊び方で,本質的なエクスペリエンスを得ることです。

 ダンテ・アリギエーリの「神曲」によると,地獄の門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と書かれているそうですが,クソゲーポストモダンの門があるとしたら,そこには「このゲームを遊ぶ者は淡い希望を捨てずに行け!」といったことが書かれているでしょう。希望があってこそ「納得できるかコラァ!」と本気で飛び上がったり,「見た目はアレだけど面白いじゃん!」と本気で感動したり,そんなことをしている自分を客観視して「しょうもねえ〜」と笑い飛ばせたりするはずです。

あえて言葉を選ばずに表現すれば「ちゃんと被害者になって楽しむマゾプレイ」ですね。画像は,かりうを喰らって「オギャーッ! 間違えたお排泄物ですわよッッ!!」と叫んだシーン。とはいえ,エモーショナルなノリが近年主流となっているのは,SNSの発達などもあって“共感”の面白さを味わいやすい時代となったからであり,それはそれで批評や検証(と悪ノリ)を是とする筆者には苦々しい部分もあったりしますが……この話は,また別の機会に
画像集#001のサムネイル/レトロンバーガー Order 44:クソゲーって何だろう。「星をみるひと」のSwitch版をプレイしながら例のいざこざをみるひと編

 以上で述べてきたように,クソゲーとはゲームが持つ多様性のひとつであり,独特の魅力を持つものです。クソゲーの生じる余地なくしてゲーム業界が発展する可能性も無く,クソゲーから学ぶ経験なくしてゲームが洗練される可能性も無い!

 そして,そんなクソゲーの複雑な魅力をありのままに楽しめるようになってこそ,真のゲーマーであると言えるでしょう。そう,だから皆も「星をみるひと」をプレイして苦悶に喘ぐが良……もとい,自分を試そうな!

〜今日のQ&Aコーナー〜

Q. 「真のゲーマー」とやらになって得することはありますか?

A. 無いが?

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