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PlayStationの生みの親・久夛良木 健氏と,その“保護者役”を務めた丸山茂雄氏が日本のエンターテイメントを語った「黒川塾(十)」聴講レポート
黒川塾の初回開催から1年,第10回の節目となる今回のテーマは「国産エンタテイメントの生きる道」。ソニー・コンピューターエンタテインメントでPlayStationプロジェクトの中心的存在だった丸山茂雄氏および久夛良木 健氏をゲストに迎え,当時の企画開発のエピソードを交えながら,日本のエンターテイメントコンテンツの現状と将来を考えるトークが繰り広げられた。
トークの最初のお題は,PlayStationをはじめ,常に新しい何かを築いてきたゲスト2名のバックグラウンドについて。丸山氏は「何もないところから新しいチャレンジをするのは無理。まずは野生動物が親から餌の採り方を学ぶように,誰かから基礎を教えてもらわなければならない」と話す。氏自身は,社会人として最初に入社した読売広告社での経験と失敗が,以降のチャレンジにつながったとのことだ。
一方,久夛良木氏は,第二次世界大戦終結後,台湾から引き上げてきた父親が材木を問屋に卸したり,魚市場を得意先とする印刷業を営んだりする姿を見て,商売を学んだという。その当時はソニーに入るなどとは夢にも思っていなかった久夛良木氏だが,父が死に際に「家業を継がなくともいい。お前は好きなことをやれ」と言ったことから,エレトロニクスの道を志したとのことである。
そののち,久夛良木氏はソニーに技術者として入社し,1988年頃にCBSソニー/EPICソニーのプロデューサーだった丸山氏と出会うこととなる。そのきっかけとなったのは,任天堂のスーパーファミコンにPCM音源を搭載しようという久夛良木氏の取り組みだった。
当時,数十万円クラスの楽器に使われるものと同等の音源を,1万円台のゲーム機に採用するという久夛良木氏のチャレンジが,音楽業界の重鎮である丸山氏に響いたのである。実際,丸山氏とのつながりで久夛良木氏の取り組みを知ったミュージシャンたちも,「これからはゲーム音楽でも腕を奮うことができる」と喜んでいたという。
ちなみに,その頃のソニーの技術者といえば,たいていはいかにも頭がよさそうな雰囲気を放っていたそうだが,久夛良木氏からは「ほかの技術者とは違う商売の匂いを感じた」と丸山氏は語っていた。
そうした取り組みがPlayStationのプロジェクトに発展していったのは有名な話だが,当時,周囲は「そんなものがうまくいくわけない」と否定的だったという。
丸山氏が「だから小人数の中で誇大妄想のようにアイデアが膨らんだ。これが会社のメインプロジェクトだったら,大会議を開いたりとか,ややこしいことになっていたはず」と話すと,久夛良木氏も「どんな新しいことが起きるか,どんな波及効果を及ぼすかを誰もイメージできず,失敗すると思われて,周囲と遮断されたのが逆によかった」と同意した。
久夛良木氏は当時を,丸山氏と出会ったことで,国内外のさまざまなエンターテイメント業界の人々との交流が広がったと回想。彼らの才能が交わることにより,多様なアイデアが膨らんで,自身とPlayStationのエンターテイメント面が成長していったと話す。
なおゲームクリエイターが名前や顔を世間に公開するようになったのは,PlayStationの登場とほぼ同時期だが,これは丸山氏と久夛良木氏,そして当時セガにいた黒川氏が別個に,音楽や映画といったエンターテイメントの宣伝手法をゲーム業界に持ち込んだ影響が大きいとのことである。
さて,現状のゲーム業界については,「日本だけ見ると調子がよくないように見えるが,グローバルで見ると,さまざまなエンターテイメント業界の才能が流れ込んでおり,全然そんなことはない」と久夛良木氏。さらに「メインのプラットフォームがPC,コンシューマ機,スマートフォンと来て,さらにスマホもWebアプリからネイティブアプリに移行する中で,先行きが不透明と言う人もいるが,むしろ市場が拡大し,夢の実現に向けて説得しなければならない人達や国境といった障壁がなくなったと考えるべき。この大チャンスに何を迷っているんだろうと思う」と続ける。
その一方で久夛良木氏は,万人にチャンスが到来したことにより,競争が激化するとし,とくに日本人はスケールの大きな話に慣れておらず,競争に乗り遅れがちであることも指摘していた。
また丸山氏は,グローバルスタンダードとなっている四半期ベースでの事業展開に異を唱えた。たとえばPlayStationのプロジェクトは短期的な視点では成立しなかったとし,きちんとした目標を立て,時間をかけて達成していくほうが日本の企業に向いているのではないかという持論を述べた。
久夛良木氏も,「何を作って,どんな夢を実現するのか。エンターテイメントであれば,どうやって人々の心を動かすのか。最近はそういう思いを感じられないものが多い。クリエイターとは本来,自分の実現したいものを持っており,今は予算がなくともそれを実現し多くの人に届けられる」と,チャンスの多い時代が到来していることをあらためて強調した。
トーク本編後の質疑応答では,まず黒川氏が両氏にPlayStation 4をどう思うかを問いかけた。久夛良木氏は「こうなったんだ。長生きはするもんだ」「親はなくとも子は育つ」「孫ができたような不思議な感覚」といったような感想を抱いたという。
丸山氏は,初代PlayStationの発売日にはPlayStation 2,PlayStation 2の発売日にはPlayStation 3のプロジェクトが進行していたため,PlayStation 3の発売日に,PlayStation 4について久夛良木氏に尋ねたところ,返答は「PS4は,もう自分じゃない」だったということを明かした。その言葉の真意は,処理のすべてをネットワーク上で行うため,専用の端末を必要としない環境になるということだったとのこと。まさに今話題となっているクラウドというわけだが,久夛良木氏はPlayStation 3の時代にそれを実現したかったと語る。
さらに久夛良木氏は「僕が思い描いていたのとはスピードやタイミングがずれたけれど,同じような考えを持っている人が世界にたくさんいたから,今,当たり前のように世界がつながっている。ネットがプラットフォームとなった今,思わず『Wow!』と言ってしまうようなコンテンツに登場してほしい」と期待を示した。
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