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【鈴木謙介】「入力装置が生み出す〈ゲーム〉性」
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印刷2010/05/01 10:00

連載

【鈴木謙介】「入力装置が生み出す〈ゲーム〉性」

鈴木謙介 / 社会学者

画像集#001のサムネイル/【鈴木謙介】「入力装置が生み出す〈ゲーム〉性」

鈴木謙介の「そこ見るんですか?」

ブログ:http://blog.szk.cc/


Aボタンはどこだ


 この連載を持たせてもらったこともあって,ずっと迷っていたXbox 360を購入しました。PlayStation 2,PlayStation 3でも積みゲーがたまっているので,据え置き機をこれ以上増やすのもためらわれたのですが,要はプレイすればいいんです。うん。

 ただ,電源を入れていきなり操作でつまずきました。何度ボタンを押しても,メニューが先に進まない。あれ? と思ってコントローラーをよく見たら,その理由に気付きました。
 Xbox 360のコントローラーのボタンは,上から時計回りに,Y,B,A,Xと並んでいます。それに対して,使い慣れたPlayStationシリーズのボタンは,同じく上から時計回りに△,○,×,□の順番で並んでいます。

画像集#002のサムネイル/【鈴木謙介】「入力装置が生み出す〈ゲーム〉性」 画像集#003のサムネイル/【鈴木謙介】「入力装置が生み出す〈ゲーム〉性」

 どのボタンにどの機能を割り当てるのかはソフトによって違いますが,日本では一般的に,Aボタンや○ボタンが「決定」,Bボタンや×ボタンが「キャンセル」である場合が多いようです。
 そのため,PlayStationと同じ感覚で,Xbox 360のコントローラーのBボタンを押し続けていたので,あれ,進まないぞ,となっていたわけですね。

 入力デバイスへの「慣れ」がもたらす誤解だといえば話は簡単なのですが,気になったので調べてみました。
 マニアックに突っ込み始めるときりがないので,自分で分かるものだけを挙げると,ファミリーコンピューター(1983年)のコントローラーは,右からA,B。PCエンジン(1987年)が右からI,II。メガドライブ(1988年)でボタンが一つ増えて,右からC,B,A。スーパーファミコン(1990年)は4ボタンで,上から時計回りにX,A,B,Y。
 スーパーファミコンと同じ年に発売されたNEO GEOは,左からD,C,B,Aですが,これはほかの家庭用ゲーム機の「両手持ち」コントローラーとは異なり,固定置きしてアーケードゲームのように操作するものなのでちょっと例外的でしょう。

 多ボタン化が進んだ1990年代のハードというと,すでに挙げたPlayStation(94年)と,同じ年に発売されたセガサターンが6ボタンで,右からZ,Y,X(上列)とC,B,A(下列)の2列。NINTENDO 64(1996年)はより複雑で,右側の2ボタン×2列がCボタンユニット,左側の2列のボタンの下側がA,上側がBボタンとなっています。そしてドリームキャスト(1998年)が,Xbox(2001年)と同じく,4ボタンの上から時計回りでY,B,A,X。

 こう書いてみるとなんだか複雑な気がしますが,考え方はシンプルです。要するに,右手の親指でコントロールするボタン群のうち,「決定」ボタンとして一般的に使用されるボタンが,ユーザーの身体に対して内側にあるか,外側にあるかというところで大別できるということですね。
 どちらの配置が「使いやすい」のかということを簡単に定義することはできませんが,一定のガイドラインを作ることはできます。ポイントは,人差し指を使うかどうかです。
 実際に握ってもらうと分かりますが,人差し指で押さえるキーがない場合,コントローラーは親指の付け根と人差し指で挟み込むように持つことになります。手の大きさによっても多少変わりますが,このとき,親指は内側に向くときに自然な角度になり,外側に向くときには少し抵抗感があります。
 これに対して,人差し指に対応するキーがあるコントローラーでは,手のひらの角度が少し上を向く形になり,結果的に親指が外側に来るので,内側のボタンを押すときに抵抗感が生まれます(言葉で説明すると分かりづらいかもしれませんが,実際にやってみてください)。

 結論だけいえば,右手の親指で押す「決定」ボタンの位置は,コントローラーを握り込む手のひらの角度によって,外側と内側のどちらに配置するかが決まるということになります。
 そうやってあらためて握ってみると,PlayStationのコントローラーは手のひらが開き気味に,Xbox 360のコントローラーは閉じ気味になるようにデザインされていることが分かります。
 決定ボタンの位置も,こうしたデザインとの関係で,ある必然性を持って決められているのかもしれませんね。


コントローラーと〈ゲーム〉性


 この種のデザイン論では,ドナルド・ノーマンの古典的名著「誰のためのデザイン?」なんかが参考になります。
 ノーマンは,日常的に使う道具の中でも,とりわけ「操作」に関するデザインの問題を取り上げています。ドアのノブとか,コンロのスイッチですね。
 こうした,もののデザインや配置のミスで操作する人を混乱させ,正しい操作方法を促すことに失敗する例が,この本ではたくさん挙げられています(日本語版の序文では,ファミコンもそうした例の中に入ると述べられています)。

 実際,ゲームコントローラーの歴史は,ゲームソフトの歴史と同じくらいに奥深いものです。それは,社会学的には「ゲーム的な身体」の発明と拡張の歴史だったといえます。
 アーケードゲームを例に挙げると,ビデオゲームの元祖であるアタリの「PONG」(1972年)やタイトーの「アルカノイド」(1986年)に採用された「パドル」から,1980年代の体感ゲーム,1990年代の格闘ゲームやいわゆる「音ゲー」などを経て現在に至るまで,「ゲームの興奮をコントローラーに叩きつけるユーザーの心理」と「プログラミングされたとおりに入力を受け付けるマシン」の間の距離を埋めつつ,そこにいかにして〈ゲーム〉性を生み出していくかということが,ゲームコントローラーデザインの重要な課題になっていたと思います。

 その昔,「ゲームセンターあらし」という名作マンガがありました。その主人公,あらしの使う秘技のひとつに「炎のコマ」という技があります。
 コントローラーのレバーをコンピューターの処理速度を超えて操作する荒技ですが,現実には許容量を超えた入力は単に無視されるだけで,実際にはあり得ない描写です。
 でも,僕を含めた当時の読者にとって,ゲームのコントローラーとは,「力いっぱい入力するほど強い技が出せそうな気がする」ものでした。この作品の描写は,そんな人間の心理をうまく捉えていたのだと思います。

 時代とともにゲームのコントローラーは進化しましたが,人間の身体能力も変化しました。
 1980年代の子供達は,初めて買ってもらったファミコンでマリオを操作するときには,Aボタンを押してマリオをジャンプさせるのと同時にコントローラーも飛び上がらせていました。
 そんな子供達も,1990年代の対戦格闘ゲームブームの頃には,フレーム単位でキャラクターの動きを見ながら,両手の動きだけで複雑な技を入力できるようになっていました。
 これはつまり,ゲームを肉体の動きの延長で操作するという身体性から,ゲームの操作に特化した身体性が分化したという風にいうことができます。
 それとともにゲームは,ゲームの世界にしか存在しない操作と,それによる独自の〈ゲーム〉性を獲得したのです。


「直感的な操作」のウソ


 こう書くと,二つの方向から批判されるのではないかと思います。
 一つは,そうした現実空間に働きかける身体感覚が,ゲームのせいで失われてしまうのではないかというもの。要するにゲームのやり過ぎで現実感覚がおかしくなるじゃないか,という批判です。
 もう一つは,ゲームの入力装置だって,スティックとボタンのコントローラー以外にも,より直感的な操作ができるものが登場しているのだから,格闘ゲームのような複雑な操作をするための高度な身体性なんて必要なくなっているじゃないか,というものですね。
 ですが僕の考えでは,実はどちらも間違っています。

 前者に関しては,ゲームの中の身体性は,あくまで現実の世界で使用する身体の作法から「分化」したものであって,決して現実の身体性を上書きするものではない,と反論できると思います。
 現実の世界では,ドアは押すか引くかしないと開きませんし,包丁を当てるだけでは野菜は切れません。この世界が物理法則に従って動いていて,僕達が日常的に使う道具がその前提で作られている以上,現実の世界をゲームのように生きることは不可能です。
 後者に関しては,確かにニンテンドーDSやWiiなど,とても革新的な操作デバイスを備えたゲームハードが普及してきました。こうしたハードが,複雑なコントローラー操作を覚えなければ〈ゲーム〉を楽しめないといった「チュートリアルのジレンマ」(前回参照)から,ユーザーを解放してくれる可能性は高そうです。
 ですが,それらの操作デバイスがこれまでのコントローラーに比べて直感的に操作できるかといわれると,ちょっと疑問です。

 ニンテンドーDSのタッチスクリーンは,つつく,スライドさせるといった操作でゲームをプレイします。ですがその「つつく」がゲーム内では「叩く」の意味だったり,「持つ」の意味だったり,あるいは「スライド」が「なでる」の意味だったり,「切る」の意味だったりします。
 そこで何の説明もなく「画面の野菜を切れ」といわれて,タッチペンをスライドさせることができる人は,ゲームに慣れている人以外,ほとんどいないでしょう。
 要するに,ゲームの操作デバイスが日常の身体動作に近い動きを取り入れていたとしても,それで〈ゲーム〉が直感的に操作できるようになるとは限らないのです。

 この「直感的に操作できる」というコンセプトは,ユーザーインタフェース(UI)の世界では長いことキーワードのように扱われています。しかし,ゲームの操作だけでなく,パソコンのOSやWebサイトのナビゲーション,あるいは家電製品まで,「直感的な操作」をうたった製品を前にして,多くのユーザーが操作に迷っているという事実は忘れられがちです。なぜこうしたことが起きるのでしょう?

 その理由の一つは,「直感的に操作できる」ということが「直感的に理解できる」ということと混同されているからではないかと思います。
 「直感的なインタフェース」とはあくまで,説明されれば現実世界の操作のアナロジーで理解できるもののことであって,何の説明もなしにいきなり操作できるものではないのです。


〈ゲーム〉が「操作する身体」をつくる


 では,どうやってゲームの操作を理解するための説明をすればいいのでしょうか。そのためには,前回も述べたように,チュートリアルをうまく〈ゲーム〉にしてしまうことが大事です。
 振り返ってみれば,「Palm」など,タッチペン(スタイラス)で入力をするデバイス(PDA)には,必ずといっていいほど文字入力の練習をするゲームがついていましたし,今でもiPhoneにはいくつもフリック入力の練習アプリがあります。

 それでは,なぜ入力の練習に〈ゲーム〉が有効なのでしょう。
 それは,「遊びながら楽しく覚えられる」というものとは,ちょっと違います(というかたいていの入力練習ゲームは,ゲームとしてはあまり面白くありません)。ポイントは,多くの遊びが非日常的な身体の動きを取り入れているということです。

 「じゃんけん」しかり,「だるまさんがころんだ」しかり,「にらめっこ」しかり。その非日常性が〈ゲーム〉性の源泉となっているわけですが,逆にいえば,非日常的な動きは,それだけで「遊び」を生み出すということでもあります。

 とあるテレビ番組でのスマートフォン特集を見ていたときのことです。スマートフォンが普及していることを示すVTRの中で,プロ野球チームの選手がベンチでiPhoneをいじっている映像に対し,「メール遊びでもしてるの?」というようなナレーションがかぶせられていました。
 分かっている人なら,それが「遊び」ではなく,試合前にこれまでのプレイのデータを復習していたのではないか,と考えることもできますが,ベンチで野球選手がスマートフォンを操作するという身体の動きを理解していない人からすれば,それは「遊んでいる」ようにしか見えないわけです。
 「メール遊び」という言い方も示唆的ですね。おそらく番組の視聴者層として想定されている高齢者からは,メールを打つという行為そのものが,「遊び」でしかないのでしょう。

 もう一つ例を挙げましょう。
 家電量販店に行くと,携帯電話やデジカメのデモ機を操作している人をよく見かけます。この操作,もちろん購入を迷っている製品の操作感を試しているのかもしれませんが,たいていは「遊び」でいろいろといじってみているだけのはずです。
 文房具店でボールペンの試し書きをすると,ついつい落書きをしたくなる心理と同じですね。

 そうなると,入力のチュートリアルは,直感的に操作できるかどうかではなく,非日常的な身体の動きを伴う〈ゲーム〉を通じて,操作方法を直感的に理解してもらうのが,一番効果的だということになるわけです。
 そして,ニンテンドーDSやWiiが,それまでゲームになじみのなかった層にまで浸透した理由の一つは,それが直感的に操作できるからではなく,非日常的な身体の動きを必然的に伴う,目新しい入力装置を持っているため,チュートリアルと〈ゲーム〉の間をスムーズに橋渡しできるようなゲーム設計が求められたからではないか,と考えることができるでしょう。


新しいUIは新しい〈ゲーム〉をつくるか


画像集#004のサムネイル/【鈴木謙介】「入力装置が生み出す〈ゲーム〉性」
 ゲームの世界では,ハードウェアのスペックだけでなく,コントローラーやUI,つまりゲーム内へと干渉する手段も進化しています。
 最近話題になったのは,Microsoftの「Project Natal」でしょうか。とくにMiloというプロジェクトの今後は,少し気になるところです。
 このプロジェクトでは「画面の中の世界と現実の世界がシームレスにつながる」ことが目指されているようですが,実際にはもちろん画面の中に入ることはできないので,二次元と三次元が融合した「かのような」身体の動きを取り入れられるかどうかが鍵になります。

 デモムービーでは,水中メガネや絵の受け渡しが行われているようですが,ユーザーがモーションセンサーの感度を体で覚え,〈ゲーム〉として楽しむものを設計するなら,より非日常的な動きが必要になるでしょう。画面の中の美少女とにらめっこしたり,ツンデレのお嬢様に「正座しなさい!」って怒鳴られて,実際に正座させられたり……。
 なんだか,最後の最後で台無しなことを書いてしまった気がしますが,要するに今回の結論はこういうことです。
 新しい入力装置やUIが〈ゲーム〉をつくるんじゃない,入力するという行為そのもの,そしてUIと「遊ぶ」ユーザーとのインタラクションが,〈ゲーム〉をつくっているのだ,と。


■■鈴木謙介(関西学院大学准教授)■■
社会学者として教鞭を執る傍ら,TBSラジオ「文化系トークラジオLife」のメインパーソナリティも務める鈴木氏。最近は,某量販店へ“納税”しながら,「ハードウェアスペックの進化で,ゲームは豊かになったのか?」といったことを検証しているそうです。面白くなった部分を探しながら。
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