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[GDC Summer]なぜ女性プログラマーは少ないのか。ブレンダ・ロメロ氏がコンピュータの発展に貢献した女性の歴史を追ったセッションを実施
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印刷2020/08/05 18:54

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[GDC Summer]なぜ女性プログラマーは少ないのか。ブレンダ・ロメロ氏がコンピュータの発展に貢献した女性の歴史を追ったセッションを実施

 新型コロナウイルス感染症の影響で中止された「Game Developers Conference 2020」の代替イベントとして開催中の「GDC Summer」で,現在「Empire of Sin」というストラテジーゲームの開発を進めるRomero Gamesを率いるブレンダ・ロメロ(Brenda Romero)氏が,女性プログラマーの知られざる歴史をテーマにしたセッションを行った。

Romero Gamesを率いるブレンダ・ロメロ氏。2019年8月,Gamescom 2019にて筆者撮影
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「GDC Summer」公式サイト


 コンピュータの歴史に興味がある人なら,1843年に「コンピュータプログラム」というコンセプトを生み出したといわれるイギリス人数学者エイダ・ラブレス(Ada Loverace)氏や,高級言語として現在も利用されるCOBOLの開発を1959年に指揮し,「コンパイラ」や「バグ」という言葉を広めたグレース・ホッパー(Grace Hopper)氏,そして元ハリウッド女優で,海軍にいる夫のためにWi-FiやGPSの基本技術である周波数ホッピング・スペクトラム拡散を設計したヘディ・ラマー(Heddy Lamer)氏などの名前を聞いたことがあるかもしれない。

ハリウッド女優としてクラーク・ゲーブルやジェームス・スチュアートなどとの共演を果たしたオーストリア人のヘディ・ラマー氏は,軍需工場を経営していた一族の影響で,応用化学の才能を開花させたといわれる
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 このように,コンピュータ史で重要な役割を果たした女性は多いのだが,最近のGDCでは,業界のフェミニズム運動の盛り上がりと共に女性参加の問題が良く議論されることもあってか,ゲーム開発でも,とくにソフトウェア技術やプログラムの分野で活躍する女性が少ないという印象を多くの人が持っている。

 この点についてロメロ氏は,小学校に通う自分の娘をプログラムを教えるサマーキャンプに参加させようとしたところ,彼女は最初「男の子ばかりだからイヤだ」と嫌がっていたという。小さな子供でもそうした偏見を持つのが普通だが,蓋を開けてみると,サマーキャンプに参加していた子供達の半数以上が女の子だったそうだ。

ロメロ氏の娘が参加したサマーキャンプのプログラム講座。確かに女の子の数は多い
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 ニューヨーク州北部の田舎町で育ったブレンダ・ロメロ氏は,ガレージセールなどで手に入れた壊れたパズルやボードゲームを修復したり,自分でルールを作って遊んだりしながらゲームデザイナーとしての能力を高めたという。11歳で「ダンジョンズ&ドラゴンズ」に出会い,15歳になると,高校でコンピュータプログラムのクラスに参加しつつ,地元で起業したゲーム企業Sir-Tech Softwareで,“ゲームテスター”という聞き慣れないバイトを始めたという。
 彼女がテストしたプロジェクトは,コンピュータRPGに大きな影響を及ぼした名作「ウィザードリィ」(原題: Wizardry: Proving Grounds of the Mad Overlord)で,ロメロ氏はそのままSir-Techで20年を過ごし,2001年には「ウィザードリィ8」のリードデザイナーに昇格した。
 Sir-Techは2003年に閉鎖されるが,ロメロ氏はその後,いくつかのゲーム会社に参加し,女性ゲーム開発者として北米ゲーム業界で知られるようになっていった。2012年には,「DOOM」「Quake」のゲームデザイナーで「FPSの父」とも呼ばれるジョン・ロメロ(John Romero)氏と結婚し,2人でアイルランドのダブリンに移住。夫と二人三脚でゲームの開発に関わりつつ,地元の大学で教鞭をとり,ゲームデザインを教えるなど,現在も第一線で活動する人物だ。

ロメロ氏がSir-Techでゲームテスターとしてバイトをし始めた当時,雇われた9人のうち4人は女性だった
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1981年にリリースされ,日本でも「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」などのRPGに大きな影響を及ぼしたとされる,初代「ウィザードリィ」(Wizardry: Proving Grounds of the Mad Overlord)。ロメロ氏は,初代から8作めまで関与した数少ないメンバーの1人だ
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 そんなロメロ氏がコンピュータ産業における女性の歴史に興味を持ったのは,大学で教えているときのことだった。多様な人材を積極的に活用しようという「ダイバーシティ」を推進する委員会に参加して企画を提出したところ,学長から「生焼けのポピュリズム的な書き連ね」という驚くような返事が返ってきた。そこには,「女性はテクノロジーに興味がない」とロメロ氏にとって偏見としか思えないことも書かれており,それが間違いであることを証明するためにリサーチを開始したというのだ。

 ロメロ氏は,その作業を「考古学」と評していたが,誕生したばかりのコンピュータ産業では,「非常に細かいところにまで目が届く人向けの,単純作業をする職種」として,女性を対象にした雇用が広く行われており,アメリカやイギリスの企業では,朝の9時から夕方5時までというきまった労働時間を指して「女の子の時間」(Girls Hour)という用語も使われていたという。
 当時の欧米のオフィスでは,女性が男性のタイプを代行することは1990年代初めまでの一般的な習慣であり,プログラムもその延長にあったようだとロメロ氏は言う。1970年代最速コンピュータとして知られる「Cray-1」や,1982年にヨーロッパなどで発売された家庭用コンピュータ「ZX Spectrum」のコーディングやアセンブルは,ほぼ女性が行ったという。

 ロメロ氏がSir-Techでゲームテスターをしながら大学に通っていた1980年代には,「プログラムは女性のもの」だとか,反対に「女性プログラマーが少ない」などと意識したことはなかったと回想する。ロメロ氏が探し出した1970年代末の雑誌には,「The Computer Girls」という特集記事が掲載されており,「インターンでも8000ドル,シニアレベルのシステムアナリストは2万ドルの報酬を得られる魅力的な業種」として紹介されていたという。

プログラムは男性の仕事,という社会の「常識」が生まれる前の1970年代に刊行された雑誌記事。調べてみると,1979年のアメリカの平均年収は1万1479ドルだったので,現在と同様,プログラマーは高給取りだった
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 以上のことから,コンピュータプログラマーという職種が専門化していくに従って報酬が増え,それにつられてあとから男性が流入してきたのではないか,というのがロメロ氏の分析だ。ロメロ氏は,「これは現在の男性プログラマー達を怒らせるために言っているのではなく,そういう歴史を経てきたのです」と語る。ロメロ氏はまた,イリノイ大学のマリー・ヒックス(Marie Hicks)氏が2017年に出版した「Programmed Inequality」を引用する形で,1970年代にはまだ「女性は家庭を守るもの」という意識が強く残っており,「女性はテクノロジー革命から外されていった」とする当時の状況を説明した。

 ロメロ氏はここで,プログラムに興味を持つ若い女性が減少したのは,こうしたある種の偏見が浸透していったからではないかと述べ,そうした偏見に打ち勝ち,コンピュータ産業の成長の歴史の中で重要な役割を果たした女性プログラマー達を列挙していった。

・マーガレット・ハミルトン(Margaret Hamilton)氏
マサチューセッツ工科大学のソフトウェアエンジニア部門の責任者として,NASAのアポロ計画に参加し,コクピット向けのソフトウェアを作った。ちなみに,夜勤のときや週末には母と一緒にNASAのオフィスにやってきたという娘のローレンちゃんは,ソフトウェアを眺めてバグを発見するという手柄を立てたという

「男を月に立たせた女性」などとも言われる,マーガレット・ハミルトン氏(右)。娘のローレンちゃん(左)も,NASA職員が見落としていたバグを見つけるという逸話を残している
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・ロイス・ハイブト (Lois Haibt)氏
1957年に「FORTRAN」を生み出したIBMの10人のメンバーの1人。24時間オフィスに出勤可能だったため,近くのホテルで寝泊まりしていたという逸話がある

・フランシス・エリザベス・アレン (Frances Elizabeth Allen)氏
ハイブト氏と同時期にIBMに所属したコンピュータ技術者で,コンパイラ最適化の土台を築いた。IBMフェローに選ばれた初の女性

最適化コンパイラも女性の発明。フランシス・アレンさんは,このセッションが行われた2020年8月4日に,88歳で永眠したというニュースが報じられた
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・カテリーナ・ユシェンコ (Kateryna Yushchenko)氏
旧ソビエト連邦のソフトウェアエンジニアで,高級言語の「Address programming language」を開発した。この言語はアドレス指定に「ポインタ」に類似した仕組みを持っていたが,これはアメリカで開発された言語でポインタが使われるより9年も早かった

・キャスリーン・ブース (Kathleen Booth)氏
1947年に研究のため渡米したイギリス人数学者グループのメンバーで,リレー式計算機ARC (Automatic Relay Calculator)や,電子式のSEC(Simple Electronic Computer),汎用計算機APECなどの設計に携わった。アセンブリ言語というコンセプトを初めて打ち出した人物でもある

・メルバ・ロイ・ムートン (Melba Roy Mouton)氏
1960年代にNASAの研究助手として雇われた黒人女性で,世界初の通信衛星エコーのプロジェクトに主任数学者として参加。「NASAのコンピュータ」という異名をとった

・メリー・ケネス・ケラー (Mary Kenneth Keller)氏
アメリカで初めて「コンピュータサイエンス」の博士号を獲得した2人のうち1人で,BASICの開発に参加した修道女でもあった。コンピュータを使った教育を説き,いくつかの大学ではコンピュータ関連の学部の設立に貢献した

・ケイ・アントネッリ (Kay Antonelli)氏
米軍の研究施設で,1945年に完成した世界初の汎用デジタルコンピュータENIACのプログラムを担当した6人の女性チームのリーダー

世界初の汎用コンピュータといわれるENIACのプログラミングを担当したのは,女性からなるチームだったという
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・アレクサンドラ・イルマー・フォーサイス(Alexandra Illmer Forsythe)氏
1969年,世界初のコンピュータサイエンス学科向け教材となった「Computer science: A First Course」を執筆した数学者で,のちにスタンフォード大学やユタ大学のコンピュータサイエンス学部の設立にも携わる。1930年代にブラウン大学に入学した際には,女性だという理由で奨学金を拒否されている

・ドーナ・ベイリー (Donna Bailey)氏
1978年にGMに入社し,クルーズコントロールの開発に参加する。1980年にAtariにプログラマーとして雇われ,1981年にアーケード向けのヒット作「Centipede」(センティピード)を開発した

・ロバータ・ウィリアムス (Roberta Williams)氏
 夫のケン・ウィリアムス(Ken Williams)氏とともにSierra On-Lineを設立し,当時の主流だったテキストではなくグラフィックスを多用したアドベンチャーゲーム「King’s Quest」を生み出し,看板シリーズに育てた

プログラマーではないが,アドベンチャージャンルの発展に大きく貢献したロバータ・ウィリアム氏。筆者は,もっと大きく取り上げられるべき人物だと思っている
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・アン・ウェストフォール (Anne Westfall)氏
30歳でプログラム言語を独習し,夫のジョン・フリーマン(John Freeman)と共にEpyxを設立する。1983年にはチェス風アクション「Archon: The Light and the Dark」のプログラムを担当し,前年に設立されたばかりのパブリッシャElectronic Artsからリリースされた

・キャロル・ショウ (Carol Shaw)氏
カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得後,23歳でAtariに入社し,Atari 2600のソフトウェアエンジニアとしてOSのカーネルをプログラムし,マニュアル著者の1人となった。1982年にはActivisionに移り,同社初のヒット作「River Raid」の開発に携わった

・メーブル・アディス (Mable Addis)氏
1930年代にコロンビア大学の教育学部を卒業し,その後,小学校の教師をしながら地元のコンピュータプロジェクトに参加する。1962年にメインフレームのIBM 7090を利用したテキストベースのストラテジー「The Sumerian Game」をデザイン。同作により,コンピュータゲームの可能性が広く認識されるようになったという

 ロメロ氏は,以上のような,コンピュータ産業ではあまり語られることのなくなった女性達の存在にスポットライトをあてることで,これからプログラムを始めようとする,自分の娘のような若い女性にとっての目標となるモデルが見えようになり,将来像を描きやすくなるのではないかと話した。

 統計を見ると,ロメロ氏がSir-Techに入社した1983年〜1984年には,コンピュータに関連する学部への進学者数のうち37.1%が女性だった。それが2010年〜2011年には17.6%に減少しており,その間の25年で,「プログラムは男性がやるもの」という偏見ができていったことが想像できるという。結果として,現在のIT産業では働く人々のうち59%が女性だとはいえ,営業や広報以外の技術分野に限ると20%ほどに過ぎなくなる。また,各部門のリーダーを務める女性の人口を見ても,全体の5%程度だとロメロ氏は述べている。

なぜ,1980年代よりもコンピュータ科学を選択する女子学生の割合が減っているのだろうか。それは,男性によって増幅された,女性自身が持つ先入観によるものだとロメロ氏は分析する
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 ロメロ氏の視点は,フェミニズム的見地から「女性にもIT(ゲーム)産業の雇用機会を増やそう」と主張するだけではなく,中長期的な問題解決の糸口になり,それは単にアメリカだけの話に留まらないという。
 「女性ゲームデザイナーとしてどのようにお考えですか?」と聞かれることが少なくないというロメロ氏だが,それは「男性ゲームデザイナーとしてどうお考えですか? と質問するのと同じことで,性別でゲーム業界を考えたことなどない」とロメロ氏は言う。そのうえで,「子供の将来を決定づけるうえで最も重要な存在は,母親なのです」とし,女性が子供の将来を遮るような先入観や偏見を持たない姿勢もまた重要だとしてセッションを終えた。

プログラマーを目指す女性達にぜひとも必要なのは親の声援なのだ,とロメロ氏は話す
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