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ビデオゲームの語り部たち 第14部:新宿ジャッキーとブンブン丸,2人の鉄人が語る「バーチャファイター」の熱狂
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印刷2019/08/24 00:00

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ビデオゲームの語り部たち 第14部:新宿ジャッキーとブンブン丸,2人の鉄人が語る「バーチャファイター」の熱狂

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「バーチャファイター」のイメージイラスト
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 当たり前のことだが,エンターテイメント作品には,それを楽しむ人がいる。だがゲームにおいて,プレイヤーは単に楽しむだけでなく,プレイ次第で第三者からの見え方を変えてしまう存在でもある。
 筆者に言わせれば,ゲームは受け手(プレイヤー)が能動的に作品へ関われる,能動娯楽,能動芸術なのだ。

 セガ・エンタープライゼス(現在のセガゲームス。以下,セガ)の第2AM研究開発部(以下,AM2研)が開発し,1993年に第1作がアーケードで稼働した「バーチャファイター」は,ゲームとプレイヤーの関係が大きく動いた,対戦格闘ゲームシリーズだ。
 当時を知っている人なら言うまでもないが,このプレイヤーとは,セガが認定した「鉄人」たちのことである。彼らは約20年以上も前,プロゲーマーなど夢でしかない時代に,全国規模の知名度と影響力を誇っていたのだ。

 当時セガに在籍し,バーチャファイターの宣伝を担当していた筆者は,そのブームを目の当たりにしたが,eスポーツという言葉が一般にも浸透した今,鉄人に改めて当時を振り返ってもらいたいと考えた。

 そうして連絡を取ったのが,「新宿ジャッキー」こと羽田隆之氏と,「ブンブン丸」こと篠原元貴氏の2人である。


いじめられっ子から“地元で最強”に


 ご存じの方も多いと思うが,羽田氏と篠原氏は,ゲーム雑誌「週刊ファミ通」の編集者でもあった。篠原氏は羽田氏の紹介で編集部に入り,編集者としても,鉄人としても同じ釜の飯を食べる生活を送っていたのだ。まずは篠原氏に,バーチャファイターと出会うまでを語ってもらった。

篠原元貴氏
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 「地元は西武池袋線のひばりヶ丘です。中学生のとき,結構ハードにいじめられてたんですよ。片親だったせいで,自宅が同級生の溜まり場になっていたんですが,『仲良く遊んでいる』と思っていたのは自分だけで,そのうち体よく使われてイジメられていることに気づいたんです。
 担任教師にも相談しましたが,そうなっちゃうと個人の力ではどうしようもないんですよね。すごく勇気を出して,そいつらを全員ボコボコにするみたいなことができればよかったのかもしれないですが,できませんでした」

 篠原氏は中学を卒業後,高校へ進学せずに就職した。

 「このまま高校に行ってもどうせ辞めちゃうだろうし,何も得られるものがないと思って。中学を出たら働こうと決めて,鳶(とび)職になりました。主に足場と基礎を作る仕事をやっていましたが,あの頃はすごく幼かったので,ちゃんとできていなかったと思います。
 鳶をやめた後,ゲーセンのスタッフを1年くらいやりました。18歳になっていないのに,深夜の閉店作業を任されてましたね(苦笑)」

 そのゲームセンターは,かなりユニークな店だったという。

 「メーカーの社長の息子さんが経営していたんですが,その人のひと声で業態が変わっちゃうくらい極端な店でした。『駄菓子売りてぇなぁ』『爬虫類飼いてぇなぁ』とか言い出すと,本当に店員が店内で駄菓子を売ったり,爬虫類の世話をしたりすることになるんです。四半期ごとに趣味が変わるような感じで……意味分かんないですよね(笑)。
 ほかにも『ラジコンやりたいなー』ってスタッフにラジコン買わせて,(サーキットがある埼玉の)秋ヶ瀬に行ったりとか。特にすごかったのは,『サバゲーやりたい』って言い出したときで。みんなで出たての電動ガンを買って,最初は外でやってたんですけど,そのうち面倒くさいから店の中でやるようになったんです。筐体の上に立っているインストカード用のプラケースにBB弾の銃痕が付きまくったり,バキバキに割れたりしてもお構いなしで,いろいろとムチャクチャなゲーセンでした」

 そんなゲーセン店員時代の篠原氏には,「後の鉄人」を感じさせるエピソードがある。

 「店長の気に入らない客が『ストIIダッシュ』(ストリートファイターIIダッシュ)をプレイしていると,『お前,ちょっとあいつ倒してこい』と指示が出て,店のジャンパー脱いでお客さんの振りをして対戦して,ボコボコにするんです……もちろんゲーム上ですけどね。
 格ゲーでは地元で一番強かったと思います。今みたいにネットで情報共有できるわけじゃなくて,強い奴がいる店に行くしかないという時代でしたけど」

 ゲームセンターを辞めた後,篠原氏は幼なじみのつてで,建築系の会社に入った。

 「そこが今で言う“ブラック”なとこで……(笑)。先輩もヤバイ人しかいなくて,ワイルドな環境でした。紹介してくれた幼なじみもトンズラしたんです。
 自分はこんな風体ですが酒もタバコもやらないので,もう無理と思っていて,腰を痛めたこともあって逃げたんです。
 ただその頃もゲームは続けていました。格闘ゲーム全盛期ですからね。そんなとき,見た目のインパクトも強かった『バーチャファイター』に出会って,やってみようと思ったんです。


放送作家になりたかった二浪青年の選択


 では羽田氏の経歴も語ってもらおう。

羽田隆之氏
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 「学歴でいえば高卒です。自分は誰よりもテレビをたくさん観ていたと思っていて(笑),それでテレビ番組を作りたい,放送作家になりたいと思うようになりました。テリー伊藤さんの会社,ロコモーションの採用面接を受けたこともあります。

 日芸(日本大学芸術学部)に進学希望だったんですけど,結局二浪してしまって……。勉強せず,テレビを観てゲームをやってバイクに乗っていただけなので,受かるはずないんですけどね。『将来どうしようかな……この状態のままどこまで行けるのかな』って思っていたときに,たまたま買った週刊ファミ通で,ゲームライター募集の告知を見たんです。応募の条件が『ドラゴンクエストIV』のレビューを800字で書いて送付っていうものだったので,それなら受けてみようかと」

 当時はPCが普及しておらず,PCより安価なワープロ専用機でさえ「どの家庭にもある」というものではなかった。羽田氏は400字詰め原稿用紙に30回ぐらい書き直して,当時の本人としては「かなりイケている」原稿を仕上げたという。
 その内容は,「『ドラゴンクエストIV』を購入するために並んだが,買えなかった」という,レビューとしてはなかなか奇抜なものだった。

 「これは採用されなきゃ嘘だな……と思うくらい自信があったんですが,2か月くらい音沙汰がなくて。『ダメだったのかな? 三浪しなきゃいけないのかな?』と思い始めたころに編集部から連絡があって,アルバイトとして採用されました」

 そうやってファミ通編集部で働き始めた羽田氏だったが,一方では大学に進学して,放送作家になる夢もあきらめてはいなかったという。


新宿「ゲームスポット21」での出会い


  かつてのゲームセンターの雰囲気は今と大きく違い,誤解を恐れずに言ってしまうと“溜まり場”だった。だが,ただの溜まり場ではなく,「ゲームを愛する連中の溜まり場」だ。
 お互いに本名や職業を知らないプレイヤーの間で,ゲームを媒介にした不思議な友情や信頼関係が生まれた。リアルなSNS……と言うのもおかしな表現だが,濃密なコミュニケーションの場でもあったのだ。

 中学時代,イジメに遭った篠原氏は,当時のゲーセンをこう振り返っている。

 「学校よりゲームセンターの友達の方が多かったですね。ゲーセンって関係性がフラットになるので。要はヤンキーもそうじゃない人もゲームが取り持って,みんな仲良しみたいな関係が構築できていたんです。だから,学校や年齢が違う友達とか知り合いが増えました」

 そういった場を通して,篠原氏のもとに「新宿のゲーセン『ゲームスポット21』に強い奴がいる」という噂が入った。言わずと知れた新宿ジャッキーである。
 それを聞いて篠原氏は迷わず新宿へと向かったが,それが25年にもわたる付き合いの始まりになるとは,さすがに思っていなかったようだ。

 当時はスマホどころかインターネットも普及しておらず,ゲームセンターの位置を網羅してくれるような地図も売っていない。篠原氏は「なんとなくこの辺だろう」というカンを頼りに店を探したという。

 「どこにあるんだかよく分からなくて,探しまわりました。入店するときはドキドキしましたね。ゲーセンのドアを開けて中に入って行くときの『強い人と戦える』という独特な感じ,あるじゃないですか。そこで『新宿ジャッキー』の羽田さんと対戦して,だんだん親しくなって,メシに行くようになりました」

 当時20歳になったばかりの篠原氏と,24歳の羽田氏は,対戦を重ねる中でお互いの力量を認め,時には朝まで好きなゲームのことを語りあい,その中で友情が芽生えた。
 そんなある日,篠原氏は羽田氏に,ファミ通編集部で働きたいという意志を込めて「どうにかなりませんかね?」と聞いたという。

 篠原氏の情熱や人格,ゲームへの愛といったものを認めていた羽田氏は,それを受けて「紹介するよ」と答え,編集部に篠原氏の採用を提案した。

 篠原氏は面接を受けた日のことをよく覚えているという。

 「履歴書と,一応『バーチャファイター』について書いた800字くらいの原稿も持って行きました。面接は5分くらいでしたね。羽田さんも同席してくれるのかと思っていたんですが,来てくれませんでした。今日も遅刻しましたけど,羽田さんはそういう人です(笑)」

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 だが羽田氏も,もちろん篠原氏の面接は気に掛けていて,面接した編集長(当時)の浜村弘一氏に採用の決め手を聞いたという。
 すると浜村氏は,篠原氏の「今までやってきたこと(ゲーム)を無駄にしたくない」という志望理由に熱い気持ちを感じたから,と答えたそうだ。

 そうしてアルバイトとして編集部に入った篠原氏だったが,生き残るのは大変なことだったようだ。


“スラム”からのスタート


 「実際に働き始めてびっくりしたのは,会社に住んでいたり,半年ぐらい家に帰らなかったりする人がザラだったことです」

 ファミ通に限らず,当時の雑誌編集者には,昼も夜もないような働き方をする人が珍しくなかった。篠原氏はそんな職場で,がむしゃらに働き始めた。

 「僕のルーツは『スラマー』ですから。今はもう変わりましたが,当時の編集部では,アルバイトたちの仕事場を『スラム』,アルバイトたちを『スラマー』と呼んでいたんですよ。当のアルバイトたちも冗談かつ自嘲気味に『スラム・スタート』って言ってました(笑)」

 篠原氏はそう言って笑ったが,スラマーの環境はなかなか厳しかったようで,基本的に個別の机はなく,長机2個を10人ほどで囲んで共有していたそうだ。また,篠原氏が入った頃は編集部にPCがなく,原稿はすべて手書きだった。PCが導入されてからも,スラムのPCは台数が限られており、先輩編集者の席にあるものを借りることが常だったという。そんな職場に耐えきれず,一度に6人採用されたスラマーが半年で3人に減るようなこともあったそうだ。

 「なので,『鉄人』と呼ばれるようになってから,原稿を受け取りに行く電車の中でファンの人に話しかけられたりするのが,すごく恥ずかしかった記憶があります。だって,職場では『スラム』にいる『スラマー』なんですからね(笑)。
 スラマーは編集部の電話番も兼ねていたんですが,ある日『ブンブン丸を出せ』という電話がかかってきて,『俺なんだけどな……』と思いながら『そういったご要望にはお応えできません』と話したこともありました(笑)」

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 同じ職場にいた羽田氏は,奮闘する篠原氏をさりげなくサポートしていた。篠原氏は編集部に入った直後,羽田氏から「虎の巻」を受け取ったという。
 原稿執筆や入稿スケジュールを組むうえでの注意点をまとめた資料なのだが,羽田氏が自身の経験から得たと思われる貴重なノウハウも,そこには記されていたそうだ。

 「『最初に伝えられる入稿日を過ぎてしまっても,プラス3日までは間に合うから大丈夫』みたいなことも書いてあって,編集部での生き残り術のようなものでした」

 当の羽田氏はこの「虎の巻」の記憶がまったくないそうだが,何にせよ,篠原氏は徐々に力をつけてスラムを脱し,いっぱしの編集者・ブンブン丸として活躍することになった。


『バーチャファイター』の衝撃


 前後するが,少し時間を遡って,羽田氏の新人時代も語ってもらおう。

 「編集部に入ってすぐ,『受験と雑誌作りの両立は難しいから,どちらかにしたほうがいいと思うよ』とアドバイスされ,受験はやめました。映像を作るのも雑誌を作るのも大差ないんじゃないかと思うようにもなっていましたし。
 半年くらい経ってからページを任されました。1ページで6つとか8つのタイトルを紹介するような記事だったんですが,印刷されてきた自分のページを見たときには『酷い内容だなあ』と,ちょっとショックでしたね(笑)。
 でも2,3年経つと,どんな仕事も一通りはこなせるようになりました。若かったから,寝食を忘れて仕事に傾ける情熱とかもあったと思うんです」

 そして,羽田氏の人生を大きく変える「バーチャファイター」との出会いが訪れる。1993年8月に開催されたアミューズメントマシンショーでのことだった。

 「確か前日も当日も,台風の影響で大荒れの天気だったんですけど,なんとしても行かなければならないと思っていました。というのも,その2〜3週間前にAM2研でメガドライブ版『バーチャレーシング』を取材したときに,鈴木 裕さんから『今度のショーですごいゲームを出すから,楽しみにしてね』って言われていたからなんです」

 強風と雨が吹き荒れる中,たどり着いた会場に展示されていた「バーチャファイター」は,製品版と仕様が大きく異なるプロトタイプだった。
 筐体にはバーコードリーダーが取り付けられており,ゲームには製品版に実装されなかったキャラクター「シバ」がラインナップされているなど,“幻のバーチャファイター”とでも表現すべきものだったのだ。

 バーコードリーダーは,さまざまな商品のバーコードを読み取ることで,技のパラメータやキャラクターの強さなどが変化するというギミックのために用意されていた。筆者も,鈴木氏が「『午後の紅茶』が最強」などと話すのを聞いた記憶がある。
 アーケード向け格闘ゲームにおける試みとしてはなかなか斬新だったと思うが,羽田氏が目を見張ったのはそこではなかった。

 「ギミックはともかく,ディスプレイに映るキャラクターのやり取りがもう,純粋に凄かったんです」

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 当時は,3Dの人体モデルをゲーム内でスムーズに動かすことなど無理と思われていた時代だった。

 「これは偶然ですが,その数か月前のファミ通に掲載された『これからのゲーム,こんなんなっちゃうかも? なんちゃって』といった感じの,いってみれば未来予測みたいな記事に『ポリゴンでできたキャラ同士が戦う格ゲーが出ちゃうかも? なんちゃって』というものがあったんです。それがもう現実として目の前に現れたわけですから,驚きました」

 衝撃を受けた羽田氏は,コンシューマゲームが中心だったファミ通誌上でバーチャファイターを積極的に取り上げ,ついには編集長に掛け合い,バーチャファイター連載のページを割いてもらうことにも成功した。

 「バーチャファイターは取り上げなければいけないゲームだと思っていましたし,その頃の編集部は『やりたいんだったら,やってみればいいんじゃない?』っていう環境でしたから」

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 羽田氏は当時編集作業や鉄人としての活動で使っていた資料を現在まで保管しており,今回の取材に持参してくれた。バーチャファイターの技リストやイラストのコピー,生原稿,「鉄人」としての契約書といったものだ。
 そして,新宿ジャッキーのトレードマークだった革ジャンも……。これは「バーチャファイター2」のジャッキーの衣装を再現したもので,羽田氏が購入したハーレー・ダビッドソン社製の革ジャンに,当時のAM2研デザイナーだった王(おう)氏がファイアーパターンをハンドペイントして製作された。

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 これだけでも,羽田氏の熱量の高さが分かるだろう。羽田氏は,後から編集部に加入した篠原氏とともに,バーチャファイターのプレイと記事作りに没頭していった。

 篠原氏はその頃のことをこう振り返る。

 「バーチャファイターの記事って,セガさんに校正を出した記憶がないくらい,自由にやらせてもらっていました。特に羽田さんと担当していた『バーチャファイターTODAY』は好き勝手にやらせてもらって,楽しかったですね。今だったら,あんな企画記事はできないかもしれないです」

 ちょうどその頃,セガの宣伝担当者として,2人と仕事上のやりとりをしていたのが筆者なのだが,篠原氏の言葉通り,当時のメーカーとしてはかなりオープンな対応をしていたと思う。それが記事の面白さにつながり,バーチャファイターを盛り上げてくれたのだが,その自由さが仇となるケースもあった。そのエピソードは羽田氏に語ってもらうとしよう。
 
 「バーチャファイターTODAYで,寺田克也さん(バーチャファイターのイメージイラストを担当)のイラストを無断転載してしまったんです。
 当時,寺田さんはあるクルマ雑誌で連載を持っていたんですが,そこに掲載されていたVRゴーグルをつけて闘う格闘家のようなイラストを,無断で使ってしまったんですね。
 会社の法務部の判断は『出典を明記すれば大丈夫』ということだったんですが,先方の出版社さんからクレームが入って,編集者の方と寺田さんに直接会ってお詫びしました。寺田さんとはそれが初対面,つまり謝罪スタートなんです(笑)。その後は親しくさせていただいて,今に至りますけど。
 自分で言うのも何ですが,あの時代はなんでもアリでしたね(苦笑)」

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寺田氏の手によるキャラクターイラスト
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「鉄人」ブームの渦中で


 衝撃的なデビューを飾った「バーチャファイター」だったが,当時セガに在籍していた筆者は,続編である「バーチャファイター2」の開発も進む中,このシリーズをさらに盛り上げるにはどうすべきか,策を練っていた。

 インターネットや携帯電話の普及がまだ進んでいなかった当時のアーケードゲームとしては,各地のゲームセンターで自然に生まれるコミュニティの支援が最も効果的だったことは言うまでもない。
 そのコミュニティを盛り上げる重要な要素になったものが,強者(つわもの)たちの存在だ。当時の格闘ゲームプレイヤーは,噂で聞く強いプレイヤーに憧れ,畏敬の念を抱き,腕を磨いて戦うことを望んでいた。魅力的な強者を作ることが,ゲームの盛り上げにつながっていたのだ。

 ただ,「バーチャファイター」登場以前にも,有名なゲームプレイヤーは多数存在していた。メーカー公認のプレイヤー,あるいはその社員が名乗る「名人」などで,それこそ各社に名人がいるような状況だった。
 この名称はおそらく将棋や囲碁の名人から拝借したものだろうが,格闘ゲームである「バーチャファイター」には少々似つかわしくないと感じた。そこで思い浮かんだのが,強靭な体力と精神力を兼ね備え,誰にも屈しないという「鉄人」だった。我ながら「いい響きじゃないか」と思ったことを覚えている。

 そうして生まれた「鉄人」という呼称は,「バーチャファイター2」のリリース後の全国大会に合わせて,セガから6人のプレイヤーへ正式に授与され,「新宿ジャッキ−」「池袋サラ」といった各自の通り名とともに浸透していった。そしてバーチャファイターと鉄人が巻き起こしたブームは,ゲームファンだけに留まらず,一般層にまで広がっていったのだ。

 鉄人の露出ぶりは,今の時代で例えるならば人気YouTuberに匹敵するものだったと思う。
「対戦格闘ゲームがうまい」ということが,それまでにはなかった新しい魅力として認知され,人々の興味や関心を強くひきつけたのだ。
 鉄人が来店するゲームセンターには,そのプレイを見ようとする人が押しかけて店の入口まで人垣を作り,その様子を在京キー局のテレビカメラが追って,情報番組で取り上げる……という具合だった。

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 全国区の知名度を持つようになった鉄人たちは,各地の強豪プレイヤーにも刺激を与え,それがさらなる盛り上がりにつながっていった。
 「京都勢」と呼ばれたZAPこと前田善弘氏,大門ラウこと大門正裕氏も,そういった地方プレイヤーとして活躍していた2人だ。
 2人は遠征試合だけでなく,セガ公認の攻略ビデオ制作作業などを通じて,鉄人たちと交流を深めたが,前田氏はそういった活動を通して,トッププレイヤーである鉄人と,地方の若手プレイヤーが濃密に親交を深められたことはとても貴重だったと語っている。

 大門氏は,バーチャファイターファンの間で“伝説のベストバウト”と語り継がれる名勝負を篠原氏と繰り広げたプレイヤーだ。1995年6月に開催された第3回アテナ杯での『ブンブン丸vs大門ラウ』の映像は,今でもYouTubeなどで確認できる。
 「大門ラウ圧倒的優位」という下馬評をブンブン丸が覆したこの一戦を,大門氏は「たまたま負けた。それにはブンブン本人も同意してくれると思います」としつつも,「だからこそあの大舞台で勝ったブンブンは,ホンモノの鉄人なんですよ」と,篠原氏を称えた。

1995年にセガ系のゲームセンターで行われたB.B.M(ブンブン丸)百人組手での記念写真。前列左から2人めがブンブン丸,後列左から2人めが柏ジェフリー,3人めが大門ラウ,4人めが新宿ジャッキー,後列右から3人めがZAP
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 前田氏,大門氏は現在も京都でそれぞれの日々を送りながら,「またあの時のように集まりたい」と願っている。バーチャファイターは,遠く離れた地にいた者たちを強い絆で結びつけたのだ。

 セガも,バーチャファイターのプロモーション施策では鉄人たちを前面に押し出したが,その結果,鉄人たちのスケジュールはかなりの過密ぶりとなった。1995年11月のスケジュールの一部を書き出してみよう。

11月12日(日)
新宿ジャッキーとブンブン丸のサイン会(秋葉原ラオックスゲーム館)

11月18日(土)
新宿ジャッキーと池袋サラのチャリティー100人組手(セガ神戸かもめ館)

11月23日(祝)〜25日(土)
としまえんサターン館

11月26日(日)
「バーチャファイター」「バーチャファイター2」対戦決勝大会(ハイテクランドセガ草加)

11月26日(日)
「バーチャファイター」「バーチャファイター2」3ON3 IN AKIBA

 公式のものだけでも,これだけのイベントがブッキングされていた。忘れてはならないのは,鉄人たちがそれぞれの仕事(本業)の合間を縫って参加していたという事実だ。ましてや羽田氏や篠原氏は,ただでさえ激務である雑誌編集という仕事をこなしつつ,鉄人として活動してくれていた。

 篠原氏は,当時の多忙ぶりがうかがえるエピソードを披露してくれた。

 「セガさんに行くときも,電車では間に合わないのでタクシーを拾って『ちょっと急いでるんで飛ばしてください』とお願いすることが何度かありました。会社があった初台(渋谷区)から大鳥居(大田区)のセガまで20分を切ったときは,自分たちもびっくりしましたね(笑)。
 今編集部にいる人たちは,そもそもタクシーがなかなか使えないでしょうし,深夜残業も徹夜もなくなってきたようです」

 ただ,そんな生活を続けるうち,さすがに篠原氏も「平日は編集者,土日はほぼ鉄人という活動で,さすがに限界を感じた」という。羽田氏も同様で,「寝てるんだか起きてるんだか分からないような状態」が続いていたそうだ。
 あっという間に有名人になってしまう環境の激変も含めて,2人にかかる負担は相当なものだっただろう。

 あれから約20年が経った今,2人は鉄人ブームをどのように見ているのだろうか。

 羽田氏がまず思うのは,もっとうまい立ち回り方があったのではないか,ということだそうだ。

 「バーチャファイターに出会った頃からずっと,誰よりも強くなりたいという気持ちでやっていました。そのおかげで有名にもなったんですけど,今にして思えば無我夢中すぎたような気がします。
 もっとビジョンを大きく持って,鉄人としての活動や自分自身をさらに充実させることもできたはずなんですが,やっぱりあの渦中にいると,そこまで意識が及ばなかったですね。若かったからというのもあるんでしょうが」

 その言葉に篠原氏もうなずいた。

 「ハタチそこそこですからね。今振り返れば,もっとうまくやれたんじゃないか,さらに盛り上げることができたんじゃないか? と思う一方で,実際には無理だったろうな,とも感じるんです」

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遊ぶ側から作る側へ


 そんな鉄人ブームが少し落ち着きを見せ始めたころ,羽田氏にある人物から電話がかかってきた。

 「鈴木 裕さんが,『今度一緒にやらない?』と。何を言っているのか分からないまま,セガに行ったら,セガサターンで動く『シェンムー』を見せられて,『サターンじゃなくて,次の新しいハードで出すことにしたから,一緒に作りませんか』と誘われたんです」

 説明するまでもないかもしれないが,「次の新しいハード」とは,ドリームキャストのことである。

 「編集長に相談したら,『やってみたらいいじゃない。自分の血肉にして,雑誌にフィードバックして出してもらえばいいから』って認めてもらえたんですよ。
 そこからは週のうち4日は編集作業,3日はセガでバトルプランナー,みたいな生活をシェンムーが完成するまでの1年半くらい続けました。『シェンムー2』の開発にも誘われたんですけど,肉体的にも精神的に疲れ果ててしまっていたので,遠慮させてもらいました」

 そうしてセガでの仕事を終えた羽田氏だったが,しばらくすると会社の体制変更にともない,編集部に籍を置きつつも,新設の部署で仕事をすることになった。

 「編集者5人が集まった部署でした。優秀な人が多かったんですが,1人辞め,2人辞め……と,1年経たないうちに4人いなくなって。『1人の部署ってどういうことだ?』……って思っていました」

 自身が置かれている立場に悶々とする羽田氏は,雑誌編集の仕事はもうやり切ったという気持ちもあったことから,15年所属したファミ通編集部を離れることにした。次の仕事は決まっていなかったが,未練はなかったという。

「バーチャファイター2」開発にあたって製作されたフルCGのパイとラウ(羽田氏提供)
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 4Gamerの読者ならご存じの方も多いだろうが,羽田氏はその後,「バーチャファイター5」の開発に参加した。

 「セガに入ったのは,プレイヤー仲間のKK雪風さんの紹介なんです。当時雪風さんはセガの開発スタッフとして働いていたので,『僕,どうですかね?』という軽く打診したら,何をやるのかも決まらないまま,あっさり入社することになって,入ってから『バーチャファイター5』のことを知らされたんです」

 それまではプレイヤーや編集者として触れていたシリーズの最新作を開発するという,希有な体験をすることになった羽田氏は,ゲーム本編のプランナーを担当したほか,バーチャファイター5専門の映像チャンネル「VF.TV」の制作にも関わった。

 その後羽田氏は,バーチャファイターシリーズではないタイトルのプロデューサーに就任。プロトタイプを作るところまで開発を進めるも,諸事情によって中断となってしまった。羽田氏はそれを機にセガからの退職を決意したが,やはり次の仕事は決めていなかったそうだ。

 「これは一区切りかな,という感じになったんです。もともとプロデューサー就任は降って湧いたような話で,悩んだ末に『新しいことに挑戦しよう』ということで引き受けたんですが,いざ始まったら『自分はこれができるタマではない』と感じましたし。
 バーチャファイター5でプランナーチームのトップ的な立場もやりましたけど,それはある程度軌道に乗ったものを調整するような仕事だったんです。プロデューサーの仕事は“0を1にする”ようなところがあって,異業種でしたね」

セガがサードパーティ向けに配布したセガサターン導入資料(羽田氏提供)
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 羽田氏はその後10か月を職のないまま過ごしてから,就職活動を始めた。

 「いよいよ働かないとまずいなと思って。バイトとか口利きではなく,正式な採用募集に応募するっていうのを,45歳にして初めて体験したんです(笑)。履歴書というもので評価されるのも新鮮で,ちょっと楽しかったです」

 就職活動の結果,ゲーム開発会社であるシンソフィアへの入社が決まった。

 「シンソフィアは『Def Jam FIGHT FOR NY』の国内版とか,『クロヒョウ 龍が如く新章』の開発実績があって,これまでの経験が活かせると思って応募しました。
 当初はそんな感じのアクションゲームを作りたいと思っていたんですが,実際に入ってみたら,女の子向けゲームが主流になっていて,ニンテンドー3DSの『プリパラ』シリーズに,プランナーとして参加することになりました。
 『プリパラ めざせ!アイドル☆グランプリNo.1』のときだったと思うんですが,ファミ通のクロスレビューで全員が8点をつけてくれて,殿堂入りしたんですよ!」

 念のために断っておくが,羽田氏は自身が開発に携わっていることを,編集部の関係者には伝えていない。
 これで羽田氏の経歴は現在に至るのだが,本人が意外な言葉を口にした。

 「実はこの前,宅配便のフランチャイズの説明会に行ってきたんですよ」

 なんと,またしても転職を考えているというのだ。

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 「なんか,やってみたいと思ったんですよね。結局ゲームに対しての情熱がなくなってきたと思ってるんです。今,ゲームは全くプレイしていません。『リーグ・オブ・レジェンド』あたりは観るんですけど,自分でやろうとは思わないですから。
 まぁ,雑誌を15年やって,ゲーム作りも15年やったんで,次の15年どうしようかなって考えて,身体が鈍(なま)っているから,身体を動かして働くのもいいなと思ったり。
 宅配の仕事なら,自分の時間も作りやすいでしょうから。ただ,僕の一番好きな四字熟語は『不労所得』なんですけどね(笑)」

 あまりに畑違いの職種への転職ということで,筆者はあっけにとられていたが,篠原氏はこの話を聞いても「昔からそういう人だから」と,まったく動じていなかった。聞いてみれば羽田氏は,何かに夢中になると,それまで築いたものを全部投げ出すようなことが多かったのだそうだ。

 とはいえ,ことの顛末は気になる。筆者は取材後しばらくしてから,羽田氏に電話してみた。すると……。

 「結局,現在はシンソフィアにまだおりまして,未発表タイトルに関わることになりました。宅配の仕事をやるのは当面先ですね(笑)」


ブンブン丸の目に映るプロゲーマー


 一方,篠原氏はフリーライターとなった後も,ファミ通の仕事を続けてきた。
 
 「数年前までは,クロスレビューなどの原稿料に加えて,ほかの媒体に出演しない専属契約料のようなものをもらっていました。結構特殊なケースだと思います。媒体以外であればゲームがらみの仕事はできるので,メーカーさん番組やイベントに出演したり,運営などの裏方をやったりしていました」

 だが,ファミ通の定期的な仕事には2018年で区切りを付けたという。

 「クロスレビューは羽田さんからの紹介で始めて,長いこと務めさせてもらったんですが,昨年辞めさせてもらいました。
 自分は結構やり込むタイプなので,ゲームプレイにかける時間とか熱量を考えると,割に合わない仕事になってしまうんです。ここまで育ててくれたことに対する恩返しの気持ちもあってやってきましたが,卒業させてもらいました。
 今は主に,ゲームのユーザーコミュニティのマネージャー的な仕事や,ゲーム大会の運営サポート,ゲーム系番組への出演といった仕事をしています。ゲームライターと名乗ってはいますが,ゲームコミュニティに携わる何でも屋という感じですね。
 最近eスポーツ的な仕事は増えましたが,あまり字を書いていないんです。ホント減りましたね。字を書く機会が……」

画像集 No.020のサムネイル画像 / ビデオゲームの語り部たち 第14部:新宿ジャッキーとブンブン丸,2人の鉄人が語る「バーチャファイター」の熱狂

 ここ数年,「eスポーツ」という言葉が一般に浸透し,プロゲーマーが地上波のテレビ番組に登場することも珍しくなくなった。それを見てかつての鉄人を思い出す人も多いと思うが,当の鉄人はどう見ているのだろうか。篠原氏に語ってもらった。

 「自分たちより前の時代は,ハドソン(当時)の高橋利幸さんをはじめとするメーカー所属の人たちが,ゲームの伝道師のような感じで『名人』として活躍していました。
 自分たちはメーカー出身ではなく,ある意味自然発生的に生まれた『鉄人』という称号をいただいて,その点では今のプロゲーマーと似ているのかもしれません。
 ただ,プロゲーマーと一口に言っても世代は幅広くて,ゲームセンターが熱かった時代を知っている人と,そうでない人とでは,若干空気感の違いを感じます。オフラインベースとオンラインベースの違い,と言ってもいいのかもしれません」

 大きく違うと感じるのは,プロゲーマーを取り巻く環境のようだ。

 「SNSとかもあって,大変な時代だな,正直可哀想だなと思いますね。一度失敗しただけでやり玉に挙げられて,みんなから石投げられちゃうような状況になるじゃないですか。
 そうやって取り上げられるだけ,ゲームが一般化してきたと言えるのかもしれないですが……」

 そして「一過性のブーム」と見る向きも多いeスポーツについて,篠原氏は違う捉え方をしている。

 「ここ最近のeスポーツの流れは,昔からゲームをやり続けてきた人が大人になり,影響力を持つ立場になっていったというだけの話だと思うんです。だから特需的なものだとか,爆発的に何かが来たとかじゃなくて,ゲームが世間的に浸透した結果だろうと。自分たちも,もっと早くそんな時代が来ていればよかったと思うんですけどね」


ゲームとゲームメディアはどう変わったか


 90年代の前半からゲームメディアに関わり,ムーブメントの後押しをしてきた羽田氏と篠原氏が,現在のゲームとメディアをどのように見ているのかも気になるところだ。

 羽田氏は,個人という存在の巨大化が,ゲームを変えたという視点を持っている。

 「自分が雑誌を作っていた頃,大規模な情報発信というものは一部の人にしかできませんでしたが,今はSNSで誰でも可能になっています。個人の力がすごく強くなってきて,それがゲームに影響を与えていると思います。
 ゲーム自体ももちろん正統に進化はしているんですが,コアな部分での大改革はなかったんだろうなと感じるんです。
 おそらく,何らかのリアルをゲームに投影・反映できるものが,“今のゲーム”なんだろうと。個人が活躍できるステージが広くなったって感じで,誰もがそういう場を持てるようになった。演出できるようになったんだと思います。以前はリアルでしかできなかったことが,ネット経由で可能になったということですね」

 確かに,TwitterやYouTubeを見れば,ゲームは今や表現手段の1つとなっていることが実感できる。

 篠原氏はゲームメディアの人間として,その流れに若干乗り遅れてしまったと感じているようだ。

 「ファミ通では映像の仕事もしていたんですが,そのときはメーカーさんに規制範囲を確認して,その中で作るという感じでした。
 最近はYouTuberが自由に映像を配信していますけど,それが可能になったのは,メーカーが積極的に主導したからではなくて,世の中の流れでしたよね。
 そういう流れに対して自分のアンテナが鈍感だったな……って思います。もっと敏感ならなきゃいけないと思って,専属をやめたんですよ。
 ゲームに関わる面白いことができると思ってファミ通に入って,確かに面白かったんですけど,気づいたらもっと自由にやっている人たちが外にいて,ちょっとうらやましく思うところもあった,という感じですね」

 ゲームに関しては,やはりネットワークの進化による影響が大きかったと感じているという。

 「『バーチャファイター3』がリリースされた頃,「Quake」を始めたんです。当時は16人くらいのデスマッチでしたけど,『(こういうゲームが中心になって)ゲーセンがやばくなる時代が絶対に来ますよ』って,山岸さん(※)に言ったのを覚えています。
 実際,ここ数年ゲーセンの閉店が目立っていますが,オフラインのコミュニティがなくなるのは寂しいです。自分はそういう環境で育ってきたので,なおさらですね」

※「ゲームスポットアテナ町田店」の店長時代にアテナ杯を開催し,格闘ゲーム大会「闘劇」にも関わった後,現在ゲーセンミカドに所属する山岸 勇氏


「バーチャファイター」の新作が見たい


 アーケード向けのバーチャファイターは,2010年7月稼働開始の「バーチャファイター5 ファイナルショーダウン」が最新となっている。つまり9年以上もの空白期間が生まれてしまっているわけだ。
 当然ながら羽田氏と篠原氏,そして筆者の3人には,バーチャファイターの新作を見てみたい,プレイしてみたいという強い願いがある。

 話を始めたのは羽田氏だ。

 「もちろん新作が出てほしい,触ってみたいと思っています。ただ,雑誌をやってるときからそうなんですけど,作る側に回ったこともあって,どういう風に付き合っていけばいいのかが,分からないんですね(笑)。純粋に遊ぶということができなくなってしまった気がします。
 仕事の延長だから,どれだけ時間を使っても情熱を注いでもOK……と,仕事を“免罪符”にしていた面もあったので,まったく関係のない立場で,また当時と同じ感覚になれる自信は……ないです。いざ出たら,夢中でプレイするかもしれないですけど(笑)」

 篠原氏も,バーチャファイターに関わる仕事をするうえでのジレンマに,悩まされた時期があったという。

 「仕事をしながらだと,プレイに専念できない時期が少なからずありました。プレイヤーとしての強さを追いかけたい一方で,記事もしっかり作らなきゃいけなくて,その板挟みになった時期がありましたね。そのジレンマ込みで,うまくバランスが取れていたのかもしれないですけど。
 当時はまず『強くなりたい』,それと『バーチャファイターを有名にしたい』という気持ちで動いていました。『強くなりたい』って,今振り返ると青臭くて,小っ恥ずかしいような気持ちですけど」

 そんな若き日の熱い思いを振り返った後で,篠原氏はこうつぶやいた。

 「このeスポーツ全盛の時代に,バーチャファイターがいないというのは,純粋に寂しいですね」

 これに羽田氏も強く頷いた。

 「『ストリートファイター』も『鉄拳』もあるのに,バーチャがないんですよね」

 2人が話したように,20年という時間が経ち,立場も変わった今,鉄人があの頃と同じような熱意を持って戦うのは難しいのかもしれない。しかし,それでも鉄人はバーチャファイターがいないeスポーツシーンに物足りなさを感じ,新作という闘いの場を求めている。
 きっと心の奥底には,『もっと強いヤツと闘いたい!』という,変わらない思いがあるはずだ。その思いを再び燃え上がらせるような新作がリリースされることを願ってやまない。

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著者紹介:黒川文雄
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 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。

 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設


(C)SEGA
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