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ゲームボーイの生みの親・岡田 智氏が任天堂での開発者時代を語った「黒川塾 八十八(88)」聴講レポート
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印刷2022/07/20 12:00

イベント

ゲームボーイの生みの親・岡田 智氏が任天堂での開発者時代を語った「黒川塾 八十八(88)」聴講レポート

 2022年7月15日,トークイベント「エンタテインメントの未来を考える会 黒川塾 八十八(88)」が,東京都内で開催された。このイベントは,メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が,ゲストを招いて,ゲームを含むエンターテイメントのあるべき姿をポジティブに考えるというものである。

画像集#001のサムネイル/ゲームボーイの生みの親・岡田 智氏が任天堂での開発者時代を語った「黒川塾 八十八(88)」聴講レポート

 今回のテーマは,「Mr.ゲームボーイ岡田智の半生記」。ゲストとして招かれた岡田 智氏が,かつて任天堂でゲームボーイシリーズの開発を手がけたときのエピソードや,ゲームのハードやソフトを開発する上での発想,苦労話などを披露した。

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 メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏による連載「ビデオゲームの語り部たち」。今回は,元任天堂の岡田 智氏に登場いただく回の前編として,「光線銃SP」「ゲーム&ウオッチ」「ドンキーコングJR.」などにまつわるお話をうかがいました。

[2022/03/28 12:00]
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 メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏による連載「ビデオゲームの語り部たち」。元任天堂の岡田 智氏に登場いただく回の後編では,ゲームボーイの開発やファミコンソフトのプロデュース,任天堂社内へのeメール導入といった仕事を振り返っていただきます。

[2022/03/29 12:00]

ゲームボーイシリーズの開発エピソードを中心に届けられた“Mr.ゲームボーイ岡田智の半生記”


 最初のテーマは,岡田氏が任天堂に入社した経緯について。もともと岡田氏は,大学の教授推薦でコンデンサー製造の中堅電子機器メーカーにエントリーしたのだが,入社試験に落ちてしまったという。そんなとき,任天堂にエントリーしていた友人が「気が変わった」と言い出したので,代わりに入社試験を受けることになったそうだ。
 任天堂について「花札の会社」くらいの認識しかなかったという当時の岡田氏。試験当日は任天堂の住所が分からず,会場に到着したのは試験の開始時間後だったが,それでも試験を受けることができ,無事に合格する。

岡田 智氏
画像集#003のサムネイル/ゲームボーイの生みの親・岡田 智氏が任天堂での開発者時代を語った「黒川塾 八十八(88)」聴講レポート
黒川文雄氏(左写真)と武田宗典氏(右写真)。武田氏は,岡田氏の任天堂在籍時をよく知る人物で,トークではゲーム名や発売時期,時代背景などの面でフォローをしていた
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 1969年3月,大学を卒業した岡田氏は,玩具の開発者として任天堂に入社。最初に担当したのは「N&B(エヌビー)ブロック」という,ブロック玩具「レゴ」をコピーした商品の企画だった。続いて,電子玩具「ラブテスター」の開発にて,横井軍平氏をサポートすることに。この「ラブテスター」を機に,任天堂は電子玩具を手がけるようになったという。

 1970年には,岡田氏は「光線銃SP」の設計を手がけることとなった。岡田氏によると,この玩具は,モデルガン好きな横井氏が,シャープの売り込んできた発光ダイオードを使って企画したものだったとのこと。またこの頃から1992年頃まで,岡田氏と横井氏は一緒に仕事をするようになっていく。

 そして1973年,任天堂は「光線銃SP」のノウハウを応用して,ブームの去ったボウリング場跡地に大型レジャー施設「レーザークレー」を展開しようとするも,オイルショックの影響で頓挫し,経営難に陥ってしまう。岡田氏によると,企画当時はバブル状態で試作品がそのまま量産されており,いくら原価をかけても社内では何も言われなかったそうだが,いざ商品化してみたらまったく売れず,在庫の山になったという。それらの在庫は,のちに小型化され,ゲームセンターに設置されるゲーム機に転用されることとなった。

画像集#005のサムネイル/ゲームボーイの生みの親・岡田 智氏が任天堂での開発者時代を語った「黒川塾 八十八(88)」聴講レポート

 銀行管理下に置かれるかどうかという事態に陥った,そのころの任天堂。岡田氏は横井氏とともに,当時の社長だった山内 溥氏から「売れても売れなくてもいいから,銀行が融資したくなるような大風呂敷を広げた企画を作れ」と命じられたとのこと。それで企画・開発したのが,1974年に登場した16ミリフィルムの実写映像を使ったエレメカ「ワイルドガンマン」である。このエレメカはヒットし海外にも輸出されたが,任天堂が持ち直すほどの勢いではなかった。

 そんな状況だったので,任天堂からは続々と人が去って行ったという。玩具の開発も,「カラーテレビゲーム」シリーズなどを手がけていた開発第二部には,上村雅之氏を筆頭に10数名が在籍していたが,第一開発部は岡田氏と横井氏の2人だけとなった。
 ほかの社員からは,「あの2人は毎日遊んでいる」と後ろ指を指されるような中,社長の山内氏からは「お前ら2人の給料くらいは出してやるから,大きく1発当てろ」と自由に発想することを許されていたそうだ。

 1970年代後半には,ほかの玩具メーカーからFL(蛍光表示管)ゲーム機やLSIゲーム機が発売され,時を同じくして電卓も安価かつ小型になっていく。そうした背景を受けて,岡田氏と横井氏は,のちにゲーム&ウオッチとなる液晶ゲーム機の企画書を作り,社長の山内氏に提案したところ,「これは開発第二部に作らせる」との判断が下ったという。しかしその企画は,第二開発部から「技術的に不可能」と突っ返されてしまう。

 そこで岡田氏と横井氏は,ランプを使った影絵方式で液晶をエミュレートした液晶ゲーム機のプロトタイプを作り実証実験をすることに。岡田氏自身は,Intel 8080向けのプログラムを独学で組んだとのこと。それまでにもプログラムについて学ぶ機会はあったそうだが,こうして実際に必要になるまではピンと来ていなかったと話していた。

 そのプロトタイプは面白いものに仕上がったが,当初の企画どおり電卓並みのサイズにできるのかという課題が持ち上がる。そこで液晶を作るためシャープに相談したところ,最初は「できない」と断られたそうだ。そこで「しばらく遊んでみてほしい」と,持ち込んだプロトタイプを預けたところ,シャープ側も「ゲームが面白いから何とかできないか」と考えてくれるようになったという。
 また岡田氏と横田氏も「なぜできないのか」をヒアリングし,たとえば「ポールを丸く描けない」という指摘には,「それっぽく見えればいい」といったように妥協点を示していった結果,ゲーム&ウオッチが完成した。

 こうして1980年に発売されたゲーム&ウオッチは大ヒットし,第二開発部には,第一開発部から人員が流入することとなる。また社長の山内氏からは「最低3タイトルは作れ」とのお達しがあり,それがシリーズ化につながっていったそうだ。これにより任天堂の負債は解消され,開発部は一気に任天堂の主戦力となっていく。

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 1983年,任天堂は「ファミリーコンピュータ」(以下,ファミコン)を発売。このゲーム機は第二開発部が開発したものだが,ローンチソフトの品揃えが少ないとの理由から,第一開発部にも光線銃SPのノウハウを使ったゲーム開発の依頼が来たという。その1タイトルが「光線銃シリーズ ワイルドガンマン」で,ディレクションとキャラクターデザインを務めたのは宮本 茂氏だったそうだ。ちなみに岡田氏と宮本氏は,仕事を終えたら一緒に遊ぶに行くような仲だったとのこと。

 ご存じのとおり,ファミコンはROMカセットを交換することによりいくつものタイトルをプレイできるゲーム機である。岡田氏は,その仕組みをゲーム&ウオッチの延長線上に応用できないかと考えた。それがのちに「ゲームボーイ」となる携帯ゲーム機を企画した原点だが,岡田氏いわく「誰でも考えることではあるが,実際にファミコンを小さくするのは難しかった」とのこと。

 この携帯ゲーム機については,岡田氏と横井氏との間で方向性の違いが生じた。横井氏の意見は,それまでのノウハウを使って1年程度で比較的簡単に作ろうというもの。しかしファミコンの欠点を把握していた岡田氏は,横井氏のやり方では思い描くものにはならないとし,最低3年かけて下地をしっかり作ってから携帯ゲーム機を世に出したいと考えていた。先輩である横井氏が「俺の言うことが聞けないのか!」と言いだし,岡田氏が「聞けません!」と返すような大喧嘩になったが,結局は社長の山内氏が岡田氏の意見を採用したという。

 岡田氏の考えるファミコンの欠点の1つは,企画段階では任天堂がすべてのソフト開発を手がけるはずだったことである。そのため今で言う開発ライブラリはおろか,そもそもソフト開発のマニュアルなどがまったくなく,任天堂社内でも苦労していたのだ。しかしナムコ(当時)がファミコンを解析し,「ギャラクシアン」を開発して任天堂に持ち込んだことから状況が一変し,任天堂がサードパーティに門戸を広げたという流れがある。
 その経緯を知っている岡田氏は,新しい携帯ゲーム機では最初からサードパーティ向けに開発マニュアルなどを用意しようと考えたそうだ。

 またハード面では,やはり液晶に苦労した。当初はシャープに相談したそうだが,先方にはゲーム&ウオッチの成功体験があったものの,そのときは「難しい」と断られたという。そこで在庫処分で安価になっていた,シチズンの子会社が作ったポータブルテレビ用の液晶を使うという話になったとのこと。しかし,それを聞きつけたシャープが,接待を含めた激しい攻勢に。結局,携帯ゲーム機の液晶はシャープのものを使うこととなる。

 液晶に関してはほかにも逸話があり,岡田氏によると企画当初は製品版よりも液晶自体のサイズが大きかったという。しかしプロトタイプを作ったときに,社長の山内氏から「これでは見えない。こんなものを販売するわけにはいかない」との指摘があり,視野角の狭いTN方式の液晶を,まだシャープが研究中だったSTN方式のそれに変更することとなった。しかしSTN方式の液晶は価格が高いため,サイズを小さくすることで原価を抑えたというのが真相である。
 なお,このときの山内氏の指摘を受けて,横井氏が自殺を考えたというエピソードを聞いたことある読者もいるかもしれないが,岡田氏は「それはない。社長が『これでは出せない』という判断をしたわけですから,一介の社員の責任にはならない」と話していた。

 CPUも,当初はファミコンと同じリコー製のものを使ってソフト開発上の互換性を担保しようと考えていたそうだ。しかし第二開発部が「スーパーファミコン」の開発を進めていたため,リコーのリソースを使わないでほしいという要請があったとのこと。そのため,少々性能の落ちるシャープ製のCPUを使うことになったのである。ちなみにこの当時のシャープ側の担当者は,のちにシャープ 代表取締役副社長や任天堂 代表取締役会長を務めることとなる浅田 篤氏だったという。

 1989年に発売されたゲームボーイは,湾岸戦争の空爆を受けても動作したほどの堅牢性も特徴だった。岡田氏によると,当時の任天堂は修理に対応できる体制が整っておらず,できるだけ壊れないものを目指していたとのこと。開発側で「これくらいの堅牢性があればいいだろう」と思っても,工場側が要件以上の厳しい検査を施すこともあったという。

 またゲームボーイは通信機能も特徴だが,これはもともとシャープ製にCPUに備わっていたものとのこと。岡田氏はかつて手がけた電子ゲーム「コンピュータマージャン役満」で2台間のケーブル通信対戦を実現したことから,ゲームボーイでも同様のことができるのではないかと考えたが,使いこなすのが難しいため,社内では「誰も使わない,使えないところにコストを割くのは止めよう」と反対されたという。
 しかし岡田氏は,それを押し切って通信用のライブラリを自身で作った。それが1996年発売の「ポケットモンスター」にて「対戦」「交換」という遊びを生み出すきっかけとなったというわけである。

画像集#007のサムネイル/ゲームボーイの生みの親・岡田 智氏が任天堂での開発者時代を語った「黒川塾 八十八(88)」聴講レポート

 1999年3月には,バンダイ(当時)から携帯ゲーム機「ワンダースワン」が発売された。このゲーム機は,1992年に任天堂を辞めた横井氏が開発に携わったものである。岡田氏によると,1997年にバンダイから任天堂に「ワンダースワンの販売を担当してくれないか」という打診があったという。
 それを受けて任天堂では,ほとんどの役員を急遽召集し会議を開いたとのこと。その会議には岡田氏も社長の山内氏から直々に呼び出され,「販売を断るから,ワンダースワンが発売される前にゲームボーイをカラーにしろ」と命じられた。そこには,シャープがカラー液晶を売り込みに来ていたという背景もあったそうだ。

 そこで岡田氏は,以前試作まで進めていたゲームボーイのカラー版をベースに製品版を完成させる。そして「ゲームボーイカラー」は,ワンダースワンに先駆け1998年10月に見事発売された。
 その一方で,カラー液晶を搭載した以外はほとんどゲームボーイと変わらないゲームボーイカラーは,任天堂のソフト開発者からは不評だったという。そこで営業と相談し,1998年9月発売の「ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド」をゲームボーイカラーに対応してもらえるよう,エニックス(当時)に打診したという。

※初出時,メーカー名の記載に誤りがありました。お詫びして訂正いたします

 2001年3月に発売された「ゲームボーイアドバンス」は,それまでの縦持ち型から横持ち型に変更。なお,岡田氏によると,ゲームボーイにも横持ちにする構想はあったそうだが,設計担当が内部構造を最適化した結果,縦持ち型になったそうだ。
 32ビットCPUやワイドカラー画面を搭載し,それまでとは違うというインパクトを強く打ち出すため,ゲームボーイアドバンスのタイミングで見た目が大きく変わる横持ち型に変更。「ゲームボーイのアイデンティティは縦じゃないんですか?」という指摘もあったが,最終的にプロジェクトの責任を取るのは岡田氏ということで,横持ち型に落ち着いたそうだ。

 そうしたハード開発に携わる一方,岡田氏は上記の「ワイルドガンマン」を初めとするファミコン用のゲームも開発している。その中でも「ファミコンウォーズ」は,PCゲームの「大戦略II」にハマって,そのファミコン版を作ろうと考えたとのこと。しかし版権元のシステムソフトが他社に権利を与えたあとだったので,社内で権利侵害がないことを確認した上で,自社ゲームとして発売したという。名称に関しては,社内で候補を募ったもののこれだというものがなく,社長の山内氏に相談したところ,「ファミコンウォーズ」になったとのエピソードが明かされた。

 ちなみに岡田氏がPCゲームをプレイしようと考えたのは,「Ultima」や「Wizardry」が面白いと聞いたことがきっかけだったそうだ。残念ながらそれらのRPGにハマることはなかったが,そののち堀井雄二氏の手がけた「オホーツクに消ゆ」や「軽井沢誘拐案内」などで面白さを理解できたとのこと。

 変わったところでは,「中山美穂のトキメキハイスクール」も手がけている。このタイトルは,当時のスクウェアの社長・宮本雅史氏から山内氏に持ち込まれた企画で,「画面に表示された電話番号に電話をかけると進行する」というだけの内容だった。
 山内氏に呼び出され,ゲームにするアイデアを出すよう命じられた岡田氏は,すぐさま「断ろう」と考えたが,さすがにその場で言い出すわけにも行かず一旦持ち帰ることに。そして,社内で何人か集めて意見を募ったところ,「アイドルの声が聞けたら面白いのでは」というアイデアが出てきて,岡田氏も面白そうだと思い,企画化することを決めたという。
 出演するアイドルを中山美穂さんにした理由は,電通がリストアップした中でスケジュールが押さえられて,今後さらにネームバリューが上がる可能性が高く,かつギャランティがそれほど高くなかったことだった。

 結果としてこのゲームは,画面に表示された電話番号に電話をかけると中山美穂さんの声が聞けるということでヒットするが,岡田氏いわく「売れすぎて失敗」だったという。なぜかと言うと,間違い電話が想定以上に多かったからである。もともと持ち込まれた企画の時点でNTTの協力を得ており,プレイヤーに電話番号を間違えられてもいいような策が用意されていたのだが,そんなものでは防げないほど,人は電話番号を間違える生き物だったということだ。一番酷いケースは,とある工場のホットラインに間違い電話がひっきりなしにかかっていたという。

画像集#008のサムネイル/ゲームボーイの生みの親・岡田 智氏が任天堂での開発者時代を語った「黒川塾 八十八(88)」聴講レポート

 話題は,2000年前後からの岡田氏の活動にもおよんだ。まず1999年頃は,ゲームボーイアドバンスの開発と並行して,携帯電話と携帯ゲーム機の融合を模索していたとのこと。きっかけはシャープがゲーム機能付きのフィーチャーフォンを作れないかと持ちかけてきたことで,いくつもの電話会社に打診したが結局頓挫したとのこと。

 また2004年12月発売のニンテンドーDSは,もともと1画面で企画を進めていたことも明かされた。しかしあるタイミングで,当時相談役になっていた山内氏から「2画面にしろ」という指示が,当時の社長だった岩田 聡氏に下されたという。
 現場は反対で,岡田氏も「タッチスクリーンとWi-Fi機能で十分新しさをアピールできる」と考え,山内氏に直接反論するつもりだった。しかし「岩田に言え。来なくていい」の一言が返ってきたとのことで,「面と向かって話したら,言いくるめられると思ったんじゃないかな」と振り返っていた。

 山内氏と岩田氏という2人の社長の下で働く経験をした岡田氏。山内氏は技術についてまったく分からない半面,相談すれば決断し,そのあとを岡田氏に任せてくれるタイプだったという。
 一方岩田氏は,プログラマー出身ということもあって論理的な考え方をするが,何かを決めるときには皆の意見を聞く協調型だったとのこと。たとえば「ニンテンドーDS」開発時には,予算がなかったため岡田氏が独断で他社の協力を得てプロトタイプを開発したところ,岩田氏から釘を刺されたこともあったそうだ。

画像集#009のサムネイル/ゲームボーイの生みの親・岡田 智氏が任天堂での開発者時代を語った「黒川塾 八十八(88)」聴講レポート

 ハードとソフト双方の知見を持つ強みを問われた岡田氏は,「ソフト屋にハードを作らせると,CPUの速度やメモリの容量などスペックを高くしたがる」とし,「ソフト作りを分かっているハード屋は,落とし所をわきまえている。だから『こうすれば,このくらいのスペックでも十分』という交渉ができる」と語った。とくに他社のゲーム機を研究のために分解したときは,「無駄なことをしている」「作りが悪い。任天堂ならもっといいものにできる」と思ったそうだ。

 セッションの後半では,岡田氏が聴講者の質問に答えるコーナーも設けられていた。
 「1990年代半ばから普及したインターネットがゲームの開発やコンテンツの提供に与えた影響は?」という質問には,「最初は宣伝の手段みたいなもので,途中からダウンロードによるコンテンツ提供が重要になった」と回答。とくに通信環境が今ほど整っていなかった当時は,通信対戦などの構想はあっても負荷や遅延の関係で実現は難しく,現実的なのはコンテンツのダウンロード提供だけだったという。そんな当時,社内では,主に営業からの「仕事がなくなるから」という理由でのDLCに反対する意見があったそうだ。

 岡田氏自身は,2006年頃からApp StoreやGoogle Playのようなコンテンツストアを構想しており,ソフトの販売だけでなく,ユーザーがコンテンツを開発可能な環境を提供することまで考えていたという。そうやってユーザーが開発したコンテンツも販売可能で,そこから手数料を取ることも視野に入れており,実際にPCを母艦とした電話機能のないスマートフォンのようなハードの開発も,大手企業の協力を得て進めていたとのこと。そういった企画は社長の岩田氏に提出していたが,営業には受け入れられず実現しなかったそうだ。

 「横井氏や宮本氏,岩田氏,そして岡田氏といった人材が任天堂に集まったのには何か理由があるのか」という質問には,「たまたまそうなった」としつつ,自由な社風だった1980年代の話を交えながら「社長が納得して結果を出せばOKだった」と回答した。
 また任天堂を定年退職するときに,岩田氏から「ヒットを出すといっても,たいていの人は1つか2つ。なぜ岡田さんは,いくつもヒットを出せたのか」と問われ,「よく分からないが,嫌なことはやらなかったからじゃないか」と答えたというエピソードを語った。

 さらに上司から命じられた気に入らない仕事を先延ばしにするテクニックとして,「できません」と答えるのではなく,やっている振りをして「あれ,どうなってる?」と聞かれたときに「こんな風にしようと思うんですが,ちょっと悩んでいます」と答えて時間稼ぎをしたり,逆に「こんなアイデアがあるんですけれど」と新しい企画を提出して古い企画を風化させたりする手法を明かした。
 イベントの最後に,「いろいろあったけれども,任天堂は楽しかった」と話した岡田氏。続けて「会社の中では,自分はこう思っているということをアピールすることが絶対重要。自己主張して,賛同してくれる人間を見つけることで,自分のやりたいことを実現していく」と語って,イベントを締めくくった。

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