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究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部
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印刷2020/07/25 00:00

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究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

画像(048)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

 2020年6月3日,セガは設立60周年(※),人であれば“還暦”を迎えた。

※前身となる日本娯楽物産が登記された1960年6月3日を起点としている

 この60年間,セガはさまざまなゲームをリリースしてきた。とくにアーケードゲームの分野では,ハイエンドチップを惜しみなく使った基板や,大型の可動筐体,それらを存分に活用するソフトウェアなどで,時代の最先端を行くエンターテイメントを提供してきたと言っていいだろう。
 VRヘッドマウントディスプレイを使ったアトラクション「VR-1」を1990年代に稼働させていたことからも,セガが常に未来を見据えていたことが分かる。

 自動車・二輪車メーカーのホンダ(本田技研工業)は,レース活動を「走る実験室」と位置づけ,古くからマン島TTレースやF1世界選手権などに参戦し,そこで培った技術を市販車にフィードバックしてきたという。それを踏まえて例えるならば,セガのアーケードゲームはさしずめ「遊ぶ実験室」といったところだろうか。

 新しい発想や技術を貪欲に求めるセガは,1990年に恐るべきゲーム筐体を生み出した。

 その名は「R360」

 プレイヤーの操作に合わせてコックピットがX軸・Y軸方向に360度回転する筐体は,人々の度肝を抜いた。セガのアーケードゲームを語るうえで欠かせない存在であり,“象徴”と言ってもいいかもしれない。

R360
画像(001)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

R360のパンフレットとスペックシート
画像(052)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部 画像(053)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

 今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,R360の開発チームメンバーに話を聞いた。時代の先を走り続ける「遊ぶ実験室」で生まれ,今なお伝説として語り継がれているR360の歴史を振り返ってみたい。

[コラム]多くの曲折を経たセガ黎明期

 紹介したように,セガの60周年は日本娯楽物産の登記が行われた1960年6月3日を起点としているが,同社のルーツを辿ると,1934年にアメリカのホノルルで創業したスタンダード・ゲームズまで遡れる。
 セガの“誕生日”についてはさまざまな解釈があり得るので,60周年に異議を唱えるわけではないのだが,セガは黎明期に複雑な経緯を辿った会社でもあるので,その歴史をまとめておきたい。

1934年 スタンダード・ゲームズ創業
マーチン・ブロムリー(Martin Bromley)氏がアメリカのハワイ州・ホノルルで創業。ハワイに駐留するアメリカ軍兵士やその家族のためにゲームを供給する会社だった。

1945年 スタンダード・ゲームズがサービス・ゲームズに社名変更
第二次大戦が終結した年に社名を変更し,日本に向けてジュークボックスやスロットマシン輸出を始める。主な顧客はGHQ駐留米軍だった。

1952年 レメアー&スチュワート創業
マーチン・ブロムリー氏の部下であるレイモンド・レメアー氏とリチャード・スチュワート氏が日本で立ち上げた,ジュークボックス・スロットマシンの販売代理店。

1954年 ローゼン・エンタープライゼス創業
のちにセガ・エンタープライゼスの社長に就任するデビッド・ローゼン氏が日本で立ち上げた会社。街頭に設置する証明写真撮影機のフランチャイズで成功をおさめ,その後アーケードゲーム機をアメリカから輸入。

1957年 レメアー&スチュワートがサービス・ゲームズと合併し,サービス・ゲームズ・ジャパンに

1960年 サービス・ゲームズ・ジャパンが日本娯楽物産と日本機械製造に分社
前述の通り,日本娯楽物産は6月3日に設立登記を行っている。

1964年 日本娯楽物産が日本機械製造を吸収合併
日本娯楽物産はジュークボックス販売の成功で資金が潤沢化していた。

1965年 日本娯楽物産とローゼン・エンタープライゼスが合併し,セガ・エンタープライゼスに
存続会社は日本娯楽物産だが,企業複合体という背景によりエンタープライゼスという呼称を使うことになった。

1969年 ガルフ&ウェスタンがセガ・エンタープライゼスを買収
ガルフ&ウェスタンは1989年にパラマウント・コミュニケーションズへ社名変更。その後バイアコムに買収された。

1979年 セガ・エンタープライゼスがエスコ貿易を吸収合併
エスコ創業者で社長の中山隼雄氏が副社長となる。代表取締役はデビッド・ローゼン氏。

1984年 ガルフ&ウェスタンがセガ・エンタープライゼスの米国法人を売却

1984年 ガルフ&ウェスタンがセガ・エンタープライゼスをCSKに売却
これに合わせて中山隼雄氏が代表取締役に就任。



深すぎる“愛“ゆえの失敗を経てセガを選んだ吉本昌男氏


 「バイクが好きだったから,ヤマハ発動機に入社したかったんです」

 現在,セガで企画設計生産本部参事を務める吉本昌男氏は,インタビューののっけからそう話して,筆者を驚かせた。

吉本昌男氏
画像(006)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部
 「セガ(当時はセガ・エンタープライゼス)に入社したのは1987年です。その前は大阪の近畿大学理工学部金属工学科で,設計関係の勉強をしていました。
 入社のきっかけは,当時セガ人事部の採用担当だった大学の先輩です。その頃のセガは体感ゲームがヒットし始めたころですから,エンジニアが不足して,採用担当者が全国各地でいわゆる青田刈りをしていたんでしょう。私が所属していた研究室の助教授宛てに連絡が来たのですが,その縁がなければ入社には至っていません」

 志望とはまったく違う業界からの誘いだったが,大学の先輩・後輩という関係ではむげに断るわけにもいかなかったのか,吉本氏はセガを見学するために東京へ向かった。

 「『まずセガを見に来なさい!』と,半ば命令のように東京に呼びつけられましたが,『ゲームには興味ありません』と言い続けていたんです」

 しかし,あるゲームがセガの印象を変えることになったという。

 「自分みたいなメカ系の人間とゲーム会社に何の関係があるんですか? って聞いたら,『こういうものを作ってるんだ』って『ハングオン』を見せられました。そこで初めて,『あぁ,これがセガのゲームなんですね』という感じになったんです。そのときは,セガが『ハングオン』を作っていたとは知らなかったんですよ」

 ゲームに興味がなかった吉本氏にも,「ハングオン」のプレイ経験はあった。

 「近畿大の西門のすぐ近くにあるゲームセンターで『ハングオン』が稼働していました。ゲームはほとんどやらなかったのですが,あれだけは,またがってプレイしていたんです。
 『ハングオン』のようなものを開発するならば,確かに自分の仕事がセガにあるかもしれないと思って,面接を受けることにしました」

「ハングオン」
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 ただ,あくまで吉本氏の第1志望は,前述したようにバイクメーカーのヤマハ発動機だった。

 「世代としては,マンガ『バリバリ伝説』を影響を受けていますし,ケニー・ロバーツやフレディ・スペンサーの活躍で盛り上がっていた二輪のGPレースも観ていました。
 学生時代はろくに大学に通わずバイトをして,それ以外の時間はずっとバイクでしたね。当時乗っていたのはヤマハのRZで,ホームグラウンドは地元の六甲山でした。レース活動もやっていたんですよ。鈴鹿サーキットのレースに出たこともあります。
 バイト先のガソリンスタンドがヤマハの特約店で二輪の販売もしていたので,好きが高じて卒業後はヤマハで設計をしたいと思うようになりました」

 さすがの「ハングオン」も,本物のバイクの魅力を凌駕するまでにはいかなかったようだ。

 「『ゲームなんて……』みたいな感じで,セガへの入社に関しては少し斜に構えていました。実際遊んでいた『ハングオン』に関しても,本物とは全然違う,自分ならもっとリアルに作るのに! なんて生意気ながら思っていましたし。
 セガに入社してからは,シュミュレータじゃないんだし,ゲームとしてはこれが正解なんだと思うようになりましたが」

 しかし,本命だったヤマハ発動機への入社はかなわなかった。

 「張り切って入社試験を受けたのはいいんですけど,ヤマハ愛が深すぎて,面接で自分が乗っていたRZの悪口というか,改善すべき点ばかり言ったことを覚えています。天下のヤマハのエンジニアに向かって……。
 それが理由かどうかは分かりませんが,あっさり落ちしてしまいました。当時,もし内定をもらっていたら,間違いなくヤマハの方に就職していましたね」

 吉本氏がヤマハ発動機に入社していたら,どんなバイクを作っただろうか。そんな想像は尽きないが,人生に「もしも」はない。
 氏が最終的にセガを選んだ理由には,「ハングオン」で会社の印象が変わったことのほかに,採用担当者から聞かされた,ある“約束”があった。

 「あと2年経ったら大阪にゲーム開発の拠点を作るから,それまで東京で我慢してくれって言われたんです。2年後には優先的に大阪へ配属すると。その話があったので,ひとりっ子の私が上京することについて,親を説得しやすくなりました。
 セガは地方の人材を多く採用していたので,私が入社した前後5年くらいはそんな誘い文句を使っていたみたいですね。その頃入ったセガ社員は,同じような話をすると思いますよ。
 入社後しばらくして先輩に聞いたら『お前も騙されたか……』と言われましたけど(笑)」

 そうして,吉本氏は1987年にセガへ入社した。

1987年6月,入社間もない頃の吉本氏(写真提供:吉本昌男氏)
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 「1987年の新卒社員は130人もいたんですよ。その頃のセガは全社員を集めても1300人だったので,10人に1人は新人です。『石を投げたら新人に当たる』って言われました。130人のうちの70人が開発部員でしたから,いかに開発力の増強に力を入れていたかが分かりますね。
 その頃印象に残っているのは,鈴木久司常務の話が長かったことです(笑)。まぁそれは冗談ですが,鈴木さんが開発部の新人70人の顔と名前を全部覚えていたことには驚きました。内定式だったか入社式だったかは忘れましたが,『君は近畿大学の吉本くんだよね』って話しかけられたんです。おそらく70人全員を丸暗記したんでしょうね」

 鈴木氏は,開発部の採用の最終面接も自身で行っていた。もちろん吉本氏の面接をしたのも鈴木氏だ。

 「後になって聞いた話ですが,鈴木さんは中山社長(中山隼雄氏)から『いい人材を採るために,朝から晩まで面接してろ。ほかの仕事をしなくていいから,開発の面接だけをしてろ』と言われていたらしいんです。そういった指示を出せるのが中山さんの凄いところだと思います。実際,鈴木さんはその頃の5〜6年は,面接がメインの仕事だったとおっしゃっていました。
 自分も後々面接官をやることになって,『企業は人なり』の意味を痛感しました。企業にとって,人材は重要ですよ」

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[2019/03/16 00:00]

 当時のセガは「ハングオン」で体感ゲームのムーブメントを巻き起こし,株式の店頭公開も終えて,まさに「成長あるのみ」という時期だった。
 しかし,入社したばかりの吉本氏は,日々の仕事に無我夢中だったのか,会社の成長はあまり気にしていなかったようだ。

 「まぁ,当時は『体感ゲーム』なんて呼ばれていなかったですしね。ああいったものって,後付けじゃないですか。当時の社内では『大型筐体』って呼んでいました。
 入社したら,いきなり翌年に東証二部上場で会社がさらに大きくなって……でも,そんな実感はありませんでしたね」

 セガの株については,ほかにも印象深いエピソードがあるという。

 「会社の責任の一端を担えって意味でしょうけれど,中山さんは社員に向けて『(自社)株を買え』と言っていたのを覚えています。当時でも400万円くらいは必要でしたから,いやいや,そんなもの買えないよって。今思うと買っときゃ良かったですけどね(笑)」

 吉本氏には,1980年代後半から1990年代の頭まで,いわゆるバブルの頃の記憶がほとんどないという。その理由は当時の働き方にあった。

 「まぁ今だから言えますが,毎月200時間ぐらい残業していました。寮から出社して,作業ツナギ着て仕事して,寮に帰るというサイクルです。なので世間知らずでしたね」

 筆者も大鳥居のセガ本社には通った経験があるから分かるが,あの場所は大げさに言えば「セガしかない」ところで,ほかのことを知らなくても生きていける,外界から閉ざされたような環境だった。

かつて大鳥居にあったセガの社屋。2019年11月に解体された
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 設計の仕事の進め方も,今とはだいぶ違っていた。 

 「その頃はCAD以前の時代なので,図面もドラフター(製図板)を使った手描きです。『R360』もあれから生まれました」

 そのドラフターが,インタビュー場所となった資料室に置かれていた。

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社長の鶴の一声で“飛び級昇進”した松野雅樹氏


 R360の開発エピソードへ入る前に,もう1人のキーマンに登場していただこう。R360の開発チームを率いた松野雅樹氏だ。氏はその後セガを退職したが,現在もゲームの企画開発にいそしんでいる。今回は諸事情により松野氏との対面は叶わなかったが,メール等で取材を行うことができた。

 松野氏は吉本氏より2年早い1985年4月にセガへ入社し,開発現場で経験を積んでいた。ちなみに同期には本連載の第5回に登場していただいた三船 敏氏がいる。

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[2018/04/28 00:00]

 その前年の1984年,セガは外国資本であるガルフ・アンド・ウエスタン・インダストリーズから,大川 功氏率いるCSKの傘下に移っていた。まだ社内には外資系企業だった名残があり,書類も英語と日本語の併記だったという。また,松野氏が新入社員研修の一環で倉庫整理をしたときには,セガがジュークボックスを販売していた時代のものと思われる大量のレコード在庫を見つけたそうだ。
 当時は米国を拠点にしていたデビッド・ローゼン氏(セガの前身の1つであるローゼン・エンタープライズ創業者)の姿を見かけたこともあったという。

 「当時を振り返ると,六郷土手のグラウンドで開発部署全体のソフトボール大会が開かれたり,年に一度全社員で社員旅行に行ったりしたことを思い出します。社内のコミュニケーションがよくて,派閥めいたものもありませんでした」

R360開発のきっかけとなったオーストラリア視察(詳細は後述)での松野氏(写真提供:松野雅樹氏)
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 もちろん,仕事にも真剣に打ち込んでいた。

 「新卒で配属された月から残業していました。当時は労働時間の制限もなくて,やろうと思えば仕事はいくらでもありましたから。もちろん強制ではなくて,自ら進んで毎日遅くまで仕事をしていたんです。
 当時はすべての図面をドラフターで書いていたんですが,体感ゲームの大きな図面が多かった私は立ち仕事になったので,肩は凝るわ,足はむくむわで,疲労は現在と比べものにならないくらい大きかったです。今だったらあり得ないですね(笑)」

 松野氏は入社後すぐ,鈴木 裕氏が指揮していた「ハングオン」の開発に参加。「スペースハリアー」(1985年リリース)では駆動部分を設計したという,その後も「アウトラン」(1986年リリース),「アフターバーナー」(1987年リリース),「バーチャレーシング」(1992年リリース)など,鈴木氏が手がけた体感ゲームの筐体設計を担当した。
 また,「アストロシティ」「ブラストシティ」「スーパー・メガロ50」といった筐体の企画開発責任者も務めるなど,その仕事はセガのアーケードゲームの歴史とも呼べるものだ。

「アストロシティ」をモチーフにしたゲーム機「アストロシティミニ」が2020年7月8日に発表された(関連記事
画像(051)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

 その頃の松野氏は,「仕事(プロジェクト)は自分で創造するもの」だと思っていたそうだが,その積極的な姿勢には社内の雰囲気が関係していたのかもしれない。

 「当時のセガは中山社長を筆頭に,鈴木(久司)常務,小口(久雄)さん,(鈴木)裕さんと,とにかく『超』が付くほど個性派揃いでしたが(笑),みんなアミューズメント出身ということもあって,今で言う『ONE TEAM』的な一体感がありました」

 鈴木久司氏もそんな松野氏のひたむきさを買っていて,年度の初めにはいつも「おい松野君よー,今年は何やるんだ?」と尋ねてきたという。さらに,入社3年ほどの松野氏に,係長への昇格試験を受けるように指示したそうだ。
 かなりの大抜擢なのだが,結果はさらに予想外のものになった。

 「当時のセガは,昇格に際して協調性などより強靱性,つまりどれだけタフに働けるかを重視していて,強靱性評価試験があったんです。今だったらあり得ないような話ですが。
 私の強靱性はとても高かったそうで,それを見た中山社長が『強靱性が高いし,鈴木と組んでるなら係長じゃなくて課長に昇格させろ,上に漬物石を置くな』と仰ったそうです。それで『じゃあ課長ね』みたいな,マンガのような辞令が出ました」
   
若き日の松野氏(右)と吉本氏(左)(写真提供:吉本昌男氏)
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オーストラリアにあった“謎のマシン”がR360の発端


 プレイヤーを乗せたシートがX軸・Y軸方向に360度回転する「R360」の発想はどこから生まれたのか。
 セガの体感ゲームには,「走って,撃って,乗って」のリアリティを追求しつつ,エンターテイメント性を加えるものが多いが,リアリティを追求する中でシミュレーションの手法をやり尽くした結果,「コックピットごと回してしまえ」という破天荒なアイデアが生まれたのだろうか。

 吉本氏は「R360」の開発について,こう切り出した。

 「開発とかコンテンツにまつわる話は,いろいろな人やメディアで語られていますが,ある意味で独り歩きしているところがあると感じます。セガ設立60周年にあたって,それらの第三者的な視点ではなくて,開発に実際に関わった者として,真実を伝えるべきだと思いました」

 「R360」については,松野氏が鈴木久司氏に呼び出されて「新しいメンバーで新しいゲームを作れ」と指示された話が知られているが……。

 「松野さんが鈴木常務に呼ばれたのは間違いありません。ただ,ここからが大事な所なんですが……実はそのときすでに,“人が乗ってグルングルン回る訳の分からない乗り物”がオーストラリアに存在していたんですよ。
 詳しくは分からないけれど,人を乗せて回る大きな筐体があって,ディスプレイも付いてるらしいと。それで鈴木常務が松野さんに『海外事業部のスタッフと一緒に行って確認してこい』という業務命令を出したんです。
 鈴木常務も,情報を持ってきた海外事業部のスタッフも,実物を見ていないのに『オーストラリアで何かが回ってるらしい』ということだけで命令が出たんですよ。私はまだ入社2年目くらいだったから,連れて行ってもらえませんでした」

 この話を松野氏本人に確認してみたところ,吉本氏が話した通りだった。

 「ある年の夏に鈴木常務に呼ばれて執務室に行くと,海外事業部の人がいて,『オーストラリアのパースで変わった体感ゲーム機がロケテストをやっているから,ちょっと偵察して来い』って言われたんです」

 松野氏がパースで見たマシンについて話してもらおう。

 「聞いたことのないメーカーが開発した実験機のようでした。R360はX・Yの2軸ですが,そのマシンはX(横)・Y(縦)・Z(奥行)に動ける3軸回転だったんです。肝心の動きは,割とゆったりしたものでした
 驚いたのは,なんとセガの『アフターバーナー』がインストールされていたことですね。あの時代ですから,許諾も何もなくて,勝手に使われていたんです」

松野氏が視察したマシン
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 松野氏が帰国すると,鈴木氏はさっそく,「おお,見てきたか,どうだお前たち,うちで作れるか!?」と尋ねてきたという。これがR360プロジェクトの発端というわけだ。

 吉本氏はそのときのことを,こう振り返った。

 「松野さんの話を聞いたり,撮ってきた写真を見たりして,『大したことない,セガならもっとすごいものを作れる』ということになったんですよ。
 ちょうどその頃に松野さんが課長に抜擢されて,メカトロ2課というチームが結成されました。私を含めて,20代前半のバイクや車好きの個性派エンジニアが5人くらい集まって始動したんです。チームの結束を高めようということで,揃いのツナギを作りました」

 課長も含めて入社間もない若手で構成されたチームは,自由な社風のセガにあっても異端と映ったようで,吉本氏もそんな雰囲気を感じ取ったという。

 「年長の先輩が沢山いる中で,25歳の松野さんが課長に抜擢ですからね。揃いのツナギを着てウキウキしている我々を見た先輩からの『未熟な仲良しチームに何ができるんだよ』と言いたげな冷たい視線は忘れません。あれから30年も経ったんですね」

 資料室のハンガーにかけられたツナギを見ながら,吉本氏はそうつぶやいた。

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原始的な実験から始まったR360の開発


 “見本”があったとはいえ,R360が単なるコピーではなく,セガ独自の発想がふんだんに取り入れられたものだったことは言うまでもない。吉本氏によると,開発作業は原始的な実験から始まったようだ。

 「鈴木さんから『とりあえず回してみろ』と指示されたので,人が乗って回せるものが何かないかと探していたら……」

ケーブルドラム(筆者撮影。R360の開発に使用されたものではない)
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 吉本氏たちは,電線を巻くための大型木製リールをセガ別館の屋上で見つけた。正しくは「ケーブルドラム」と呼ばれるもので,どういう経緯でそこにあったのかは分からないが,おそらく電話や電気系の工事で使用され,そのまま放置されたものだろう。

 「ケーブルドラムの真ん中の部分を電動ノコギリでくり抜いて,そこに自動車のバケットシートと4点式のシートベルトを装着しました。それに開発メンバーが代わる代わる乗って,屋上でゴロゴロ転がしたんです(笑)」

 松野氏もケーブルドラムのことはよく覚えているようで,開発が進むにつれてこの実験作業が進化していったことも話してくれた。

 「ケーブルドラムの後に,X軸・Y軸それぞれを人力で回せるモデルを作りました。それで回転速度の目安を付けて,次にその速度を実現できる電動モデルを製作したんです。それは鉄パイプの骨組みにバケットシートとシートベルトを取り付けたもので,外からモーターでX軸とY軸を回転させていました。これには鈴木常務も(鈴木)裕さんも試乗しています」

 R360の外観で目を惹くのが,コックピット部分を360度取り巻くアーク(円弧)状のフレームだ。吉本氏によれば,このパーツの製造は,それまでセガが行ってきた筐体開発では例がないほど高い工作精度を必要とするもので,何度も試作を繰り返したという。

 「元となっているのは断面が縦100ミリ,横50ミリで厚みが2.3ミリの角型鋼管なのですが,それをアーク状に加工するとき,歪みによる残留応力,つまり元の状態に戻ろうとする力が働くんです。それが素材にクラック(ひび)などを生む要因になってしまうので,外部の加工メーカーと試作品を何度も作って,強度や耐久性を確認しました。
 ちなみに鋼管はパイプベンダーという加工治具(じぐ)を使って曲げていました。ハンドクラフトの極地のようなものです。
 いかにフレームを真円に近づけるかが重要なポイントでした。組み立てに関しても細心の注意が必要だったんです」

 フレームがここまで重要視されたのは,コックピットの回転に大きく関わっていたからだった。

 「ピッチ(Y軸)はフレームの外側,ロール(X軸)はフレームの内側から駆動していましたが,二軸ともフレームに沿って回転する仕組みです。電車で言えばレールに当たるものなので,そこに留意して開発と製造にあたりました」

 松野氏も,フレーム製造の難しさを語っている。

 「R360のフレームは加工が難しく,初期に製造されたものの一部に微細なクラック(ひび)の発生があったので,定期的な打音検査を各アーケードに依頼していました。その後加工工程が確立してからは,そのようなことなくなりましたが」

R360という名称が決定する前に制作された10分の1のスケールモデル
画像(043)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

 筐体の組み立ても,かなり大がかりなものになったようだ。

 「フレームは2分割式で,半分組んだ後にコックピット部分をクレーンで吊るしたまま内側に入れて,残りのフレームを組み込みました。いわゆるハンドメイドですから,1日で3台の製造が限界でした」

 このように,いくつかのユニットに分けて製造し,最後に組み合わせる方法はブロック生産と呼ばれており,航空機や鉄道車両,船舶などで採用されている。
 この組み立て作業は,千葉県印旛郡栄町にあったセガの自社工場(矢口事業所)で行われたとのことだ。

R360の組み立てが行われたセガ・エンタープライゼス矢口事業所。現在はセガ・ロジスティクサービス矢口事業所となっている(写真提供:セガ)
画像(012)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

 松野氏は,R360の開発を「新しいことずくめ」だったと振り返った。それまでのゲーム開発ではまったく見られなかったパーツや機能が必要になったのだ。

R360の木型
画像(044)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部
 「もっとも苦労したのは,X軸,Y軸が無制限に回転する仕様に対応することでした。ゲーム基板や電源は外に配置するので,回転するコックピットへ電力や制御信号,映像などを送らなければなりません。当時はWi-Fiもなかったので,信号も動力も全て有線接続で伝えることになります」

 そのために必要となったのが,回転体に電力や電気信号を伝えられる「スリップリング」というパーツだった。吉本氏はスリップリングや駆動モーターの選定を行ったという。

 「スリップリングは電力,映像,X軸・Y軸の制御信号も伝えなければならないため,耐久性を重視してかなりグレードが高いものを採用しました。軍事船舶のレーダーにも使われる白金(プラチナ)接点のものです。
 価格は1個100万円ぐらいで,それをX軸用とY軸用の2つ使用しました。最終的にはかなり金額を抑えることができましたが,それでも高価でしたね。駆動モーターは東芝製の1.5KWのACサーボモーターをX軸用とY軸用に2個使用しています」

 サーボモーターとは,回転角度や回転速度を正確に制御する用途を想定したモーターで,工業用ロボットなどにも使われている。R360ではそれくらいの精密さが要求されたというわけだ。

 また,松野氏によると電力面でも試行錯誤があったという。

 「消費電力が大きくて,セガでは初めて三相交流200Vという産業用電力を使うことになりました。その設備を整えるために,担当者が東京電力に電話をかけて相談していたことを覚えています」

 そして,筐体の回転がハードウェアに与える影響への対策も必要になった。

 「当時はブラウン管モニターしかなかったので,回転すると地磁気の影響で色ムラが発生したんです。自動消磁をかけるようにしましたが,完全には解消できませんでした」

 R360は,このような“特別仕様”となったため,販売価格もかなりの高額となった。ゲームセンター事業者への正式販売価格(オペレーター価格)は1800万円,実売価格でも1600万円になったという。さらに生産台数は150台限定で,追加生産もなしとされた。

 ここまで紹介してきたことから,“品質相応”であることはお分かりいただけると思うが,アーケードゲームとしては法外な価格である。開発を進める中で問題にはならなかったのだろうか。その疑問には吉本氏が答えてくれている。

 「あの頃は開発と経営の間に絶対的な信頼があって,現場は『これ以上金を使うな』と言われたことはないんです。最終的には鈴木常務が中山さんのところへ行って,直談判していました」

 このように,R360は何から何まで規格外だった。日本中が好景気に沸き,アーケードゲームが隆盛期を迎えていたあの時代に,自由な社風のセガの,常識にとらわれない若手社員でなければ開発できなかったのではないだろうか。

 余談になるがクルマ好きの筆者は,R360にトヨタ2000GT(※)を重ねてしまう。ジャンルは違えど,どちらも“夢のマシン”であった。

※トヨタ自動車とヤマハ発動機が共同開発して製造されたスポーツカー。公式生産数は337台。


命を乗せて回るR360の設計思想


 セガのメカトロ2課が技術と熱意を結集して開発したR360だが,最も重点が置かれたのはどの部分だったのだろうか。
 吉本氏はその問いに即答した。

 「やっぱりシートベルトでしょうね」

 当然と言えば当然だが,プレイヤーの安全が最重要ということだ。

 「絶対的な安全性を守るために,シートベルトを重視しました。シートベルトさえちゃんと作れば,あとはマシンをぶんぶん回せばいいんですよ。
 ただ,当時はまだちゃんとしたアミューズメントマシン用のシートベルトがなかったので,自分たちで作るしかなかったんです。2点式だと体が浮いてしまうから4点式にしようということになって,クルマ用のシートベルトをメーカーさんから買って,見よう見まねで作り上げました」

R360のシートやハーネスの図解(R360のマニュアルより)
画像(038)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部 画像(039)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

 松野氏も,R360で追求したのは絶対的な安全だと語っている。

 「皆さんは意外に思われるかもしれませんが,R360の開発にあたって最重要テーマとして掲げられていたのは『安全であること』でした。いかなることが起こっても,搭乗しているプレイヤーや周辺のお客様が怪我をすることは絶対にあってはならないんです」

 松野氏の話からは,R360の安全思想がほかの筐体より一歩先を行っていたことも窺える。

 「オーストラリアで見たマシンや,R360と同時期に他社さんがリリースした3軸体感マシンは,稼働中にシートベルトを外すと緊急停止するようになっていました。しかしマシンが動いている最中にプレイヤーがシートベルトを外せること自体が,とても危険なことなんです。逆さまになった状態だとプレイヤーは落下してしまいますから。
 R360では,プレイ中はシートベルトのボタンをロックして,外せないようにしました。自力では降りられず,アテンダント・スタッフの補助が必要です」

 この仕様のため,開発中にある“事件”が起こった。

 「モーションの開発をしていたスタッフが,周囲に誰もいないときにプレイしていたところ,ちょうど逆さになった状態で停止してしまったんです。
 何時間かそのまま宙吊りになっていて,たまたま様子を見に行った人が『う−,あ−』と唸っているのを見つけて,やっと降りることができました。怪我がなくてよかったです」

 吉本氏もこの一件を覚えているようだ。

 「自分でシートベルトを解除できちゃいけないから,あれはしょうがないんですよ。宙吊りの状態でパニくって外したら,落ちて大怪我します」

 R360の安全設計は,開発スタッフの細心の配慮によって生まれた。
 コックピットのバケットシートはセガの完全オリジナルだ。シートはFRP製で,表皮はPVC(塩化樹脂製ビニール)レザー貼り。中にはウレタンが“餡子”として充填されていた。

 そのシートに装備されるセイフティシステムの詳細については,松野氏に説明してもらおう。

 「シートベルトは,業界だと『ハーネス』と呼ぶのが通例ですが,R360のハーネスはほぼオリジナルの設計で,既存部品を使ったのはベルトとバックルのみです。
 R360のシートに座ると,上にスチールパイプ製のセイフティバーがあります。アテンダント・スタッフの指示でプレイヤーがそのバーを引き下げて,自身の体にフィットする位置で固定します。
 その次に,左右から伸ばしたシートベルトをセイフティバーに取り付けられているバックルに差し込み,ロックします。さらにサイドにある拘束レバーを締めて,緩みのない状態にしたうえでプレイを開始という流れです。このような4点式でプレイヤーを固定するシステムは当時ほかになく,試作から最終仕様に至るまで1年半かかりました」

R360のパンフレットより
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 吉本氏は,「シートベルトさえちゃんと作れば,あとはマシンをぶんぶん回せばいい」と話していたが,もちろん無制限に回転できたわけではない。プレイヤーの健康を配慮し,負荷が2G以内に収まる設定がなされていた。
 ジェットコースターなどでは最大Gが3以上のものが珍しくないので,それに比べると控えめに感じられるかもしれない。しかし,瞬間的にかかるGと,R360のように持続するGでは感じ方が大きく変わる。

 プレイヤーが回転に耐えきれなくなった場合の緊急停止ボタンも用意された。R360を体験したことのある人ならご存じだと思うが,コックピット内右側の壁面に設置された赤いボタンがそれだ。開発スタッフの間では,「ギブアップ・ボタン」と呼ばれていたという。

稼働中のR360。コックピットの奥に緊急停止ボタンが見える
画像(013)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

 筐体の横に備え付けられた「コントロールタワー」も,安全対策の一環だ。こちらは吉本氏が説明してくれた。

 「R360の稼働においては,ゲームセンターのアテンダント・スタッフが立ち会うことをマストとしていました。そのスタッフがコントロールタワーにあるキースイッチを操作しないと起動しないんです。
 コントロールタワーでスタッフ側からも緊急停止ができるようになっていましたし,さらに2軸の回転を個別に操作したり,ワンボタンでイニシャルポジションに戻したりもできる仕様でした」

画像(046)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

 コントロールタワーにはメイン基板や通信基板,その他の制御システムが内蔵されていたほか,10インチのモニターでゲーム画面やサービス画面が確認できた。トラブル発生時や緊急停止時には,上部に備え付けられたパトランプが光るなど,まさにプレイヤーの安全を守る“管制塔”だったのだ。

 プレイヤー以外の安全対策にも抜かりはなかった。筐体の周りにはフェンスが取り付けられただけでなく,フェンスと筐体の間に感圧式のマットスイッチが敷き詰められて,人が近づくとやはり緊急停止するようになっていた。

 本連載の第3回を読んでいただいた方であれば,新宿カーニバルプラザのスタッフとして勤務していた林田貴光氏が,夜間に故障したR360の修理に度々出向いたというエピソードを覚えているかもしれない。

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 メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が,ビデオゲームの歴史で記録・記憶しておくべき人々や場所などを振り返る連載「ビデオゲームの語り部たち」。第3部は,対戦格闘ゲームで盛り上がった1990年代のゲームセンターを,当時新宿・歌舞伎町のゲームセンターで働いていた林田貴光氏の視点で振り返ります。

[2018/02/03 00:00]

 だが,記事中にも書いた通り,その筐体には移送中にフレーム部分が損傷するという前歴があった。吉本氏は,そういったケースを別にすれば,R360はほとんど故障のない筐体だったと断言している。

 「故障はほとんどありませんでした。R360は『フェイルセーフ』,つまり絶対的な安全を担保した設計のため,セイフティセンサーが多数装備されています。それがわずかな危険を察知して緊急停止するケースは多かったと思います」

 R360の緊急停止のほとんどは,設計通りに動作した結果だったわけだ。

 それを証明するようなエピソードがある。都内のある施設に設置されたR360は,毎日ほぼ決まった時刻になると緊急停止したそうだ。原因を調べたところ,天窓から差し込んできた日光が,ちょうどその時間,センサーに当たっていたという。そのセンサーはコックピットの乗降口近くに設置されており,プレイヤーが手を伸ばしたりすると反応して,緊急停止する仕組みになっていた。
 なおコックピットは,一般的な体格の人間が手を伸ばしてもフレーム部には届かないように設計されていた。万が一に備え,二重三重の安全設計がなされていたというわけだ。

R360のマニュアルは,アテンダントスタッフ用のものも用意された
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綱渡りだった発表会,そしてデビュー


 吉本氏や松野氏の努力が実を結んで,R360は完成にこぎ着けた。最初にインストールされたタイトルは,セガAM2研開発の「G-LOC: AIR BATTLE」だ。戦闘機を操るシューティングゲームという,R360にうってつけのゲームだが,R360よりも早い1990年5月に稼働を開始したことからも想像できるように,同作はR360ありきで開発されたものではなかった。吉本によると,「タイミングが良かった」のだという。

 「当時(鈴木)裕さんが『G-LOC』を開発していて,R360にはこれしかない,ということで実装したんです」

「G-LOC: AIR BATTLE」はジェット戦闘機をモチーフとするシューティングゲーム(画像はNintendo Switch用ソフト「SEGA AGES G-LOC AIR BATTLE」のもの)
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 そして1990年7月3日,今は無き羽田東急ホテルでR360の発表会が行われることになった。
 吉本氏はそのときに撮影された貴重な映像を流しながら,当時を振り返ってくれた。

 「昔のセガは発表会とか新人歓迎会とかを,会社から近かった羽田東急ホテルで開催していましたね」

 映像はR360を会場に搬入する様子から始まった。

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 「これは大変でした。朝の8時にR360を載せたクレーン付きのトラックをホテルの裏口に乗り付けて,釣り上げて降ろして……。重さは1.5トンあります。4トントラックに積めるように計算して設計してはいましたが,積み下ろしはこの日が初めてでしたからね」

 それはまさに綱渡りだったようだ。

 「最初の搬入口でまず引っかかってしまったんです。ホテルの図面上は入るはずだったんですけど。もうギリギリで,隙間を縫うように筐体の向きを変えていれました。やっぱり行ってみて,やってみないと分からないんです。
 そんな状態から数時間後に発表会が始まるんですから,無茶ですよね。今だったら前日搬入とか前々日搬入が当たり前になっていますけど,当時はそんな贅沢な段取りではなかったんです。
 会場では床に薄っぺらいベニヤ板を敷いて,その上を移動させたんですが,ホテルの宴会場は毛足の長い絨毯なので,入れるそばからベニヤ板がバリバリ音を立てるんです。高級な絨毯なのに!
 当時は三相交流電源の200Vを使うゲームマシンはほかになかったので,ホテルの電気容量も心配で,ヒヤヒヤものでしたね」

 今だからこそ笑って振り返れるかもしれないが,この作業は大きな危険を伴うものでもあった。本来であれば,筐体の輸送や搬入に関してのマニュアルも納入時期に合わせて作成されているはずだが,発表会の時点では間に合っていなかったようだ。

 「ちょっと気を抜いたら,倒れた筐体に挟まれて大怪我をしてもおかしくない状況でしたね。気合でやるしかないという感じでした」

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 発表会ではでは当日のアーケードゲーム系の3役員が揃って着座し製品の説明を行ったが,R360を事前に体験し,把握していたのは開発側のトップだった鈴木常務だけだったという。

左から永井 明氏(常務・AM事業本部),小形武徳氏(常務・AM営業本部),鈴木久司氏(常務・AM開発本部)
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 ちなみに海外のセガマニアの間では,この発表会が行われた1990年7月3日はR360の“誕生日”として認識されているという。

 発表会が無事に終わると,次はロケテストが待っていた。
 前代未聞の大型マシンが置かれるだけで相当な話題になることは想像できるが,実際どのような反応があったのだろうか。吉本氏に聞いた。

 「実質的なR360のマシンデビューとしてロケテストを行ったのは,渋谷の宮益坂にあるハイテクランド セガ渋谷でした。当時のアーケードゲームは1プレイ100円でしたが,R360は1プレイ500円だったにも関わらず長蛇の列ができて,整理券を配布したのを覚えています。
 1日14時間フル稼働で100プレイが限界でしたが,順番待ちのお客様がほかのゲームで遊びながら待つので,店舗全体のインカムに大きく貢献したんです。鈴木常務は『R360は客寄せパンダだ!』と言ったとか言わなかったとか……。それだけ話題性と実益があったんです」

 発表会と同様に搬入には苦労して,このときは現地でR360の土台と回転部に分割したうえで搬入したという。

 ロケテストを終えて正式に稼働したR360は,わずか150という限られた台数ながらも当時の人たちに強烈な印象を与え,多くの称賛を集めた。

 ただ,当時の吉本氏は,R360が高く評価される中で,複雑な感情を抱いていたという。

 「R360を『究極の体感機』と評価されて嬉しくもありましたが,『次に作るものがなくなった』という喪失感を覚えたのも事実です。まだ入社して3年目の春でした」


移り変わる時代と,忘れられない思い出


 他に類を見ない規模の資金や最新技術が注ぎ込まれたR360を完成させたことで『次に作るものがなくなった』と感じた吉本氏ではあったが,創作意欲が失われたわけではなかった。その頃の吉本氏を突き動かしていたものの1つは,バイク愛だったようだ。

 「『マンクスTT スーパーバイク』(1995年リリース)は,私が水口(水口哲也氏)をそそのかして立ち上げたプロジェクトです。
 入社のきっかけになった『ハングオン』を超えるバイクゲームをどうしても作りたい,その舞台は学生のときから憧れていたマン島しかない! ということで,まずは5月にマン島でコースやレースを取材して,9月のJAMMAショーに出展しました。
 取材では,チーム監督としてマン島入りしていた元レーサーの高橋国光さんにお目にかかることができました。ミュージアムには本田宗一郎さんや,当時セガ副社長だった入交昭一郎さん(※)の写真が展示されていたのを覚えています」

※本田技研工業副社長,ホンダ・レーシング(HRC)初代社長。1993年にセガ・エンタープライゼス代表取締役副社長に就任

1995年のアミューズメントマシンショーに出展された「マンクスTT」(写真提供:吉本昌男氏)
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 マンクスTTには,吉本氏のバイク愛が惜しみなく注ぎ込まれた。

 「『ハングオン』でできなかったことをやろうということで,ハンドルを固定して,オン・ザ・ステップでバランスをとれるようにしたり,マフラー自体をスピーカーにして迫力を出したりといった仕掛けを施しました。
 結果ツイン筐体が7000台近く販売される大ヒットになって,特にヨーロッパでバカ売れしたんですよ。日本では生産が追い付かなくなったので,イギリスで現地生産するために,セガの名刺と『マンクスTT』の設計図面を持って,板金屋を探しに行きました」

 この業者探しはかなり難航したようだ。

 「『What? What did you say?』といった感じで,ほとんど相手にしてもらえなかったのを覚えています。
 日本からやって来た若いヤツが,本物かどうかも分からないセガの名刺を出して,ほかの仕事で埋まっている工場のラインを空けてくれって言うわけですから,なかなか信じてもらえなかったんです。
 最終的にはウィンブルドンの近くに工場が見つかって,ほとんどが現地製造になりました。数千台の発注が来たものだから,そこの職人さんはみんなびっくりしていましたよ」

 セガ入社のきっかけとなったバイクゲームを完成させた後には,就職活動で涙を飲んだヤマハ発動機との仕事が実現した。

 「ヤマハさんの協力のもとで『ウェーブランナー』(1996年リリース)を開発しました。その名称自体がヤマハさんの登録商標なんです。私からヤマハさんに話を持ち込んだのですが,面接のときとは違って,ちゃんとヤマハ愛が伝わったようです(笑)」

JAMMAショーに出展された「ウェーブランナー」
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 吉本氏は今でも,就職活動をしていた頃を思い出すことがあるようだ。

 「ヤマハに入っていたらどうなっていただろう……と思いますよ。ヤマハに入社していたらバイクしか作っていなかったかもしれませんが,セガに入ったことでバイクもレースカーも戦闘機も戦車も全部作ることができました。今の技術力でリメイクすれば,もっとすごいものになるでしょうね」

 R360をはじめとする体感ゲームに加えて,ポリゴンによる3Dグラフィックスを採用したタイトルのヒットもあって,1990年代のセガは“黄金期”を迎えたのだが,時代は移り変わっていく。

 「2000年代に入った頃,組織が大きく変わった時期にもあたるのですが,会社の業績が芳しくなくなってきて,大きなリストラが行われたんです。“開発者イコールプロダクト”と言ってもいい組織なので,その期間は大きなヒット作品が生まれませんでした」

 吉本氏はそう言って,後ろにあったセガの年表を指さした。年表には,その時代時代でヒットしたタイトルの筐体写真が添えられているのだが,2000年ごろにぽっかりと空白ができてしまっている。吉本氏も年表を作ってみて初めてその空白に気づき,驚いたそうだ。

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 その空白期が過ぎると,吉本氏は「時代が変わった」と思うことが増えたという。

 「自分たちが若い頃は,昼間は『バリバリ伝説』,夜は『頭文字D』を地で行くようなライフスタイルでしたけど,今の若い人たちには免許を持っていない人が多いですよね。クルマとかバイクとかの乗り物に乗って楽しむことも,昔ほどないんじゃないかと思うんです。今では中国や欧米の方のほうが体感ゲームを好むようで,だから日本では自ずとそういう企画も出てこなくなった」

 前述したように,吉本氏はエンジニアの採用面接を行っていた時期があるのだが,入社希望者の志望動機にも変化があったそうだ。

 「ある時期までは,『R360みたいなゲームを作りたくてセガに入った』という人が多かったんですよ。でも,少し時代が経つと今度は『三国志大戦みたいなものを作りたい』となったんですよね。フラットカードリーダーを使って新しいゲームを作りたいということだと思うんですが。
 ただ,フラットカードリーダーも20年近く使ってるわけじゃないですか。だから開発に関しては,もっと突き抜けたような革命を起こしてほしい,という思いがありますよね」

 そう話す吉本氏は,まさに突き抜けた発想と手法で,ヒットタイトルを世に送り出してきた。
 プレイヤーが筐体のステップに上がり,回りながらプレイする超大型のUFOキャッチャー「ドリームパレス」(1992年リリース)では,1日で60万円超という当時のインカム記録を作った。1994年に横浜ジョイポリスで稼働を開始した「VR-1」は,VRヘッドマウントディスプレイを使ったアトラクションだ。

 「2018年ごろ“VR元年”とか騒がれていましたが,こっちは『はぁ? 25年前にやってるぜ』という感覚でした」

「VR-1」で使用されたヘッドマウントディスプレイ「MEGA VISOR DISPLAY」
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 吉本氏が開発したものではないが,「セガカラ」の「ソングナビゲーター」もセガが起こした革命といっていいだろう。分厚い「歌本」を電子化して,新曲情報を即座に更新できるようにしたり,曲のコード入力ミスをなくしたりしたのだ。

 「あれはセガにとっては『あって当たり前の機能』だったので,普通に開発したんでしょうけど,おそらく他社だったら特許ものでしょう。
 そんな感じだから,セガが持っているパテントって少ないんですけど,セガの開発者は,発明ぐらいのことをやってこそだと思いますね」

 そんな会社で育った吉本氏だけに,開発のエピソードにも型破りなものが多い。氏は楽しそうに振り返ってくれた。

 「『ゲットバス』(1998年リリース)を開発しているときは,会社に水槽を置いて,実際にバスを飼ってましたから(笑)。毎日,金魚を餌としてあげていたんですよ。バスは釣り具の上州屋さんから借りたんです。いつもそんな感じで,リアルなものから研究していました。
 回転ずしのUFOキャッチャー『スーパーグルグルステーション』(2008年)って知ってます? ベルトの上をプライズが回って,ちゃんと中に人が入ってオペレーションするもので,ショーに出展したときは,寿司のぬいぐるみを回したんです。
 ベルトコンベアは,富山県にある業者さんが製作した本物の回転寿司用のものを使用しているんです。その会社に行って,売ってくださいとお願いしたら『何に使うんですか?』って笑いながら対応されましたね(笑)」

 セガでなければ体験できなかった思い出もある。

 「セガに入ったおかげで,いろいろな人に会えました。
 1991年だったと思いますが,F1のチャンピオンドライバーで“音速の貴公子”と呼ばれていたアイルトン・セナがセガに来て,会うことができたんです。マイケル・ジャクソンやスティーヴン・スピルバーグ監督にも。
 その頃の給料は安かったけど,見えないご褒美が多かったですね。もうすべてがプライスレスでした。だって普通の会社にいたら会える人じゃないでしょ(笑)」

セガのゲームをプレイするアイルトン・セナ氏(手前中央)と,それを見守る吉本氏(セナ氏の後ろの列の右から3人目)
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 夢のある話だが,若い人たちに向けてこういったことを話すことはあまりないという。

 「話しても『……いい時代でしたねー』で話が終わっちゃうから。今の子にアイルトン・セナとか,映画の『TOP GUN』を語っても分からないでしょうし。フェラーリって言ったって,『あぁ,あの赤いヤツですか?』みたいな(笑)」

 そう言って,吉本氏は窓際に飾られていたレースゲーム筐体のモックアップを指さした。それはフェラーリをテーマにしたもので,そのシンボルである跳ね馬も描かれているが,フェラーリのライセンスを受けたレースゲーム「F355チャレンジ」(1999年リリース)の筐体とは異なるようだ。

 「それはピニンファリーナ(※)にデザインしてもらったんですよ。サインも入っています。
 大川さん(セガの社長・会長を歴任した大川 功氏)に『お前なぁ,こんなことしてんだったら1回ピニンファリーナと仕事してみいや』『ピニンファリーナ呼んであるから,会えや』って言われて会ったんです」

※イタリア・トリノ市に本拠をもつ工業デザインスタジオ 特にフェラーリのクルマを多くデザインしていることで知られる

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 このモックアップは,吉本氏と大川氏の2人分が作られたという。

 「製作費はとんでもなく高かったんですけど,大川さんとのいい思い出です。これをもとにF355チャレンジのスペシャルバージョン筐体をと思ったんですが,最終的には実現しませんでした。その開発中に大川さんは他界されたんです。
 大川さんは,さっき話した『スーパーグルグルステーション』も,『面白いからやれや』って言ってくれたんですよ」


人々の夢を乗せて今も回り続けるR360


 ここで,話をR360に戻したい。といっても過去ではなく,現在のR360である。

 リリースから30年が経った今も,稼働しているR360はあるのだろうか。筆者はそれが気になっていた。以前業務用ゲームの下取りや販売を行う業者に取材をしたときに聞いたことがあるが,国内には1台もないとの返答だった。

 海外に輸出されたR360で有名なのが,2009年にこの世を去った“King of Pop”ことマイケル・ジャクソン氏が保有していたものだろう。氏は来日時にたびたびセガを訪れたほどのファンで,R360も彼の住まいであるネバーランドに設置された。
 しかし氏の死後,そのR360はオークションにかけられ,その後は行方知れずとなっている。

 ほかの情報を探したところ,カナダでの記録を見つけた。ナイアガラの滝近くにあるスカイロン・タワー(Skylon Tower)の地下,スカイ・クエスト・アーケード(Skyquest arcade)で,1990年代に稼働していたようだ。

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当時のスカイクエスト・アーケード。R360以外にも「スペースハリアー」「アウトラン」「アフターバーナー」などが配置され,さながらセガの博物館のような様相だったという(写真提供:Sara Zielinski)
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 スカイクエスト・アーケードのR360は1999年の終わりにスカイクエスト・アーケードから撤去され,その後ケベック州ラヴァルのショッピングモールにあるゲームセンターに導入された。そこで2000年頃まで稼働していたというが,ゲームセンターの電気工事の際に損傷してしまい,修理が不可能と判断されてスクラップ処理されたようだ。

 ちなみに松野氏によると,アメリカで初めて稼働したR360は,カリフォルニア州アナハイムにあるディズニーランドのアーケードに設置されたものだという。

 「自分が数十キロの部品を担いで,現地まで修理に行きました。スリップリングなどの定期的なメンテナンスも必要でしたから,R360は手間がかかるマシンだったかもしれません」

 興味深いエピソードは出てきたのだが,筆者が調べたところでは国内でも海外でも,現役で稼働しているR360は見つけられなかった。

 しかしである。その顛末を吉本氏に話すと,驚きの答えが返ってきた。

 「世界にはいるんですよ。持っている人が……。スペインやオランダにいるし,なかでもイギリスのゲーム修理業者のクレイグさんは,稼働するR360を持っているんです。ここにある『RETRO GAMER』という雑誌の取材に協力している人なんですけどね」

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 そのクレイグ・ウォーカー氏はゲームのコレクターでもあり,R360を個人で保有しているという。筆者は氏にコンタクトを取った。

 ウォーカー氏が保有しているR360は,1994年にAM1研が開発した「ウイングウォー(Wing War)」がインストールされた,貴重なバージョンと思われる。氏は「G-LOC」のロムも保有しており,「ものの10分もあればゲームの変更は可能」だそうだ。

 なお,R360にインストールされたタイトルは,前述の「G-LOC」(AM2研開発)と,この「ウイングウォー」に加えて,AM3研が開発した「ラッドモビール」があった。つまりAM1研から3研が開発したコンテンツそれぞれがR360で稼働したということになる。

 ウォーカー氏が提供してくれた写真とムービーには,2020年の現在も稼働するR360の姿があった。

クレイグ・ウォーカー氏と,氏の保有するR360
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ウォーカー氏のコレクションは博物館級
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 こういった熱烈なファンによって保存されているR360が海外にある一方で,国内のR360はセガでも確認できていないという。それはつまり,開発したセガも現在保有していないということだ。吉本氏はそれを話したあとで,こうつぶやいた。

 「本当はセガが1台持っていたいマシンなんですが……」

 その声には,いくばくかの悔しさも感じられた。

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 R360は,「創造は生命(いのち)」というセガの社是を体現するものでもあった。

 開発当時は残業休日出勤が当たり前で,1年間で出社しなかった日が6日だけだったと明かした松野氏は「今じゃ考えられないですよね(笑)」と言いつつも,一緒に仕事をした人たちとの忘れられないエピソードを嬉しそうに語った。

 「R360の開発で地方のFRP成型工場に行き,そこの工員さんと一緒に作業をすることがありました。夜中まで続くこともあったんですが,彼らはセガとの仕事がとても楽しいと言うんです。
 『普段は浄化槽のような人の目に触れない製品を作っているけど,セガの体感ゲーム機は街のゲームセンターでピカピカ輝いているんです』とか『このマシンは父ちゃんが一生懸命作っているんだと子供に自慢できる』といった話をしてくれて,『そのセガのフラッグシップモデルを作るのだから,この上なく楽しい』と。楽しんでくれるのはプレイヤーばかりではないんだと思いました」

 もちろん松野氏は今も,人々が楽しめるマシンを目指している。

 「R360を開発していた頃はVRという言葉が使われ始めたばかりでしたが,今やAR全盛です。でもこれからは,視覚聴覚だけではなく,五感をフルに刺激してくれるようなアミューズメント・マシンで現実世界を感じてほしいです。それはVRでもARでもない『リアル』ですね。私がその一翼を担えることができればと思っています」

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 吉本氏も,R360をはじめとするゲームの開発から得たセガイズムを,次世代に継承しようとしている。

 「セガは昔から,ないもの(手に入らないもの)は自ら作るしかない,作ればいい,作れないものはない,というマインドを持っていたと思います。志が高いというより,それが当たり前の社風でした。
 『こんなデバイスがあれば面白いゲームができる』となれば,そのデバイスやシステムをゼロから作る。『作れる』ことが前提で,『作れないかも?』という発想がそもそもなかったんです。もちろん技術的なハードルやコストの問題はありましたが,必ず最後には作れるという,裏付けのない確信を持っていた気がします」

 吉本氏が言うように,怖さを知らない『若気の至り』の力は絶大なものだ。経験を積んだ技術者は『作れない理由』をたくさん持っているが,経験が浅いエンジニアにはそれがない。

 「ジュール・ヴェルヌは,『人間が想像できることは,人間が必ず実現できる』と言ったそうですが,夢があって素晴らしい言葉だと思います。
 私が入社した頃から,セガには『創造は生命』という社是があって,今もセガサミーのグループバリューとして継承されていますし,『若い力』という社歌もあります。これからのセガも,若い人が想像力を発揮して『世界初!』と胸を張って言えるものづくりをしてほしいと思います。
 鈴木常務の『とりあえず見に行け! とりあえず回せ!』という激のままに行動した結果,R360が生まれたように,今の若い人もベテラン世代の無茶ぶりに『できるかも?』と思ってくれればありがたいですね(笑)」

 R360はプレイヤーだけでなく,セガの夢も乗せて回っていたのだと思う。だからこそ吉本氏は「セガが1台持っていたい」マシンだと話したのだろう。30年前にリリースされたR360が今なお動き続けているように,時代や場所が変わってもセガの遺伝子は受け継がれて,その思いが込められたコンテンツやマシンがぐるんぐるんとエンターテイメントの世界をかき回し続けてほしい。そう思わずにいられなかった。

画像(035)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部

著者紹介:黒川文雄
画像(049)究極の体感ゲーム筐体「R360」の開発メンバーが次代に託すセガの遺伝子。ビデオゲームの語り部たち 第19部
 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設


参考資料:「それは『ポン』から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち」(赤木真澄著),「セガ・アーケード・ヒストリー」,「RETRO GAMER」,Sega Retro
写真提供:吉本昌男,松野 雅樹,Craig Walker,Sara Zielinski
取材協力:Sara Zielinski,Craig Walker
(C)Skylon Tower
(C)SEGA
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