企画記事
ゲームブックブームの爛熟と終焉。短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第3回は,風向きが変わった90年代以降を辿る
第2回ではゲームブックブームが爛熟期を迎えた1980年代後半の動きを紹介したが,第3回ではそこからブームの終焉に向かい,風向きが変わっていった1990年代と,雌伏の時期であった2000年代を追いかけていく。
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なお,本連載が収録される予定の書籍「主人公はキミだ!」の事前予約は,本日1月23日が最終日となっている。完全受注生産方式であるため,入手したい人はこれが最後のチャンスである。価格は1万7600円(税込)と少々値が張るが,この記事をここまで読み進めたゲームブックファンであれば,手に入れておいて後悔はしないはず。
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■連載記事一覧
- 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
- ゲームブック戦国時代。短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第2回は,原作者の来日に沸き,ライバルが乱立した80年代中盤を振り返る
「ファイティング・ファンタジー」とその時代
27 「ウォーロック」編集長の代替わり
「ウォーロック」の創刊編集長・多摩 豊氏は,創刊4年目を迎えた35号(1989年11月)で編集長の座を退くこととなった。2代目編集長に指名された近藤功司氏によれば,理由は多忙のため※。近藤氏は,その前の号(34号,1989年9月)でも,アメリカへ出張する多摩氏に代わり「実質編集長」を務めている。
だが,理由は多忙だけではあるまい。
比較的低年齢層のファンタジーファンがメインだった同誌において,34号の特集は新機軸SFであった。一方,35号ではアメリカ出張の成果として,多摩 豊氏による「トンネルズ&トロールズ」(以下,T&T)のデザイナー陣(マイク・スタックポール,ケン・セント・アンドレ,リズ・ダンフォース)へのインタビューや,ワールドコン(世界SF大会)のレポートを掲載。特集は「ファイティング・ファンタジーをもっと楽しく」ということで,これまでのシリーズ展開を総括しつつ,今後を占う内容となっている。
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とはいえ,3年も続けてしまうと頭が堅くなってしまうのはいなめません。読者の皆さんがどんどん成長されていくのに,こちらが追いついていけないようではもういけません。というわけで,次号からはより若く,柔軟で知識も豊富な新編集長,近藤功司を迎えて,新生ウォーロックとして再出発することになりました。
――というのが,「ウォーロック」35号の編集後記における多摩 豊氏の弁であるが,この間の背景を概観してみると……。
まずマーガレット・ワイス&トレイシー・ヒックマン両氏による小説シリーズ「ドラゴンランス」がベストセラーとなり(富士見ドラゴンノベルズ,1987年より),1986年からは“戦うパソコンゲーム雑誌”こと「コンプティーク」でD&Dリプレイとして連載され,T&Tにちなんで「ウォーロック」へ“出張”したことすらある(14号,1988年2月)「ロードス島戦記」は,ゲームマスターを務めた水野 良氏により,小説化が開始(角川文庫,1988年より)。
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さらにはソロアドベンチャーと多人数アドベンチャーを同梱し,16世紀イギリスという歴史的な舞台を扱いながらも汎用性を持たせ,ほかの舞台への応用も推奨されていた「混沌の渦」(アレクサンダー・スコット,清松みゆき訳,日本語版1988年)も登場した。
さらに文庫本のテーブルトークRPG(以下,TRPG)として,市場の覇権を握ることになる「ソード・ワールドRPG」のリリースも1989年である。
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こうした編集長の代替わりに前後して,安田 均氏の名評論「ファイティング・ファンタジーの楽しみ方」の連載がスタートする(25号〜30号,32〜43号)。これは初期シリーズについて,それぞれを異なったコンセプトの作品と捉え,各々を異なる切り口から論じつつ,取り上げた全作品のフローチャートを掲載した労作であった。
1990年には文庫本にまとめられ,後年のリバイバルにおいても基本文献として参照されるものとなりえている。
※近藤功司氏の証言に基づく。
28 「アドバンスト・ファイティング・ファンタジー」の登場とその周辺
こうして「ウォーロック」誌上では,日本オリジナルの展開として,T&Tの上級ルール「ハイパートンネルズ&トロールズ」(以下,HT&T)のデザイン・プロセスが公開されていった。「ファイティング・ファンタジー」も,原著に合わせて「アドバンスト・ファイティング・ファンタジー」(以下,AFF)を展開。イギリスではマーク・ガスコイン氏が編纂し,進めていたプロジェクトだ。
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前者は「モンスター誕生」などでタイタン世界の背景に通じた安田 均氏の訳で,ダークだが陰鬱ではなく“カラッとしている”FFの持ち味が存分に出た逸品であった。SF作家ジャック・ヴァンスの「魔王子」シリーズを意識した訳語選択が光っている。
シナリオについても,「スティーブ・ジャクソンのファイティング・ファンタジー」で味わいのある文体を示した本田成二氏が起用され,魅力的なトリックスターたる謎かけ盗賊を,雰囲気たっぷりに日本語へ落とし込んでいた。
T&TからハイパーT&Tへ。FFからAFFへ。こうした流れは「ウォーロック」誌上だけではなかった。
D&Dは「アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ」(以下,AD&D,新和,日本語版1990年)に,「ローズ・トゥ・ロード」は「ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード」(遊演体,1989年)へと版を変え,老舗タイトルは上級者を視野に入れた新版で,プレイヤーの繋ぎ止めようとしていた。
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FFにしても,多摩氏自身が「蘇る妖術使い」(イアン・リビングストン,1988年7月30日)や,「盗賊都市」と同じポート・ブラックサンドを舞台とした「真夜中の盗賊」(グレアム・デイヴィス,1989年4月30日)をすでに翻訳していたし,安田氏もアメリカのスティーブ・ジャクソン氏とのつながりからか,ロボットアクションTRPG「メクトン」(1985年)の文脈で,「ロボット・コマンドゥ」(1987年10月25日)を翻訳している。佐脇氏も,第31巻「悪霊の洞窟」(1989年9月30日)のような後期作まで,ゲームブックの訳を続けていた。
なお2人用ゲームブック「王子の対決」(アンドリュー・チャップマン&マーティン・アレン,1987年9月25日)でデビューしたニューフェイスの翻訳者・深田 宏氏は,この時期,ケルト神話のティル・ナ・ノーグやアボリジナル神話を習合させたかのような,夢の世界へと赴く意欲作「恐怖の幻影」(1989年4月30日)の翻訳を手がけている。
深田氏は,本田成二氏や新藤克己氏と同じく関大SF研のメンバーであり※,以後も富士見ドラゴンブックで,“カードゲーム感覚で遊べる2人用ゲームブック”こと「デュエル・マスター」(1989年)の翻訳を手がけている。
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柿沼氏は,のちにアン・ライスやパトリシア・ハイスミスなど,ホラーやロマンス小説の訳者として名を馳せていくこととなる。
とびきり美麗なアートワークも相まって,「魔術師タンタロンの12の難題」は好評をもって迎えられたが,極めて難解なパズルは,イギリスの読者と同じく日本の読者の頭を悩ませたようで,「ウォーロック」17号から20号まで,連載の形でヒントや解答をサポートする記事が掲載されている。
安田 均氏も,1人用で高難度なところは残念としながらも,21世紀になって流行するモダンな謎解きゲームの先駆けとして高く評価しており,同作の人気がのちの「魂の宝箱と12の呪文」(安田 均訳,日本語訳1990年12月1日)の刊行につながったと話していた。
※安田 均氏の証言による。
29 ゲームブック評論家へ転向した近藤功司氏
「ウォーロック」は学術出版社である社会思想社から出ていたからか,あるいはゲームブックが「本」であるからか,評論に力を入れていた。
「ウォーロック」の2代目編集長を任された近藤功司氏の批評は,神月摩由璃氏のブックレビュー「摩由璃の本棚」(のちにまとめられエッセイ集として刊行,現代教養文庫,1989年)や,小泉雅也氏のゲームブック時評「マーくん水晶玉」と並ぶ,一つの屋台骨であった。そんな近藤氏は,いかにしてゲームブック評論家となったのだろうか。
「火吹山の魔法使い」刊行後,近藤氏は海外・国産ものを問わずゲームブックを買い集め,それらを実直に分析し,「シミュレイター」誌上で連載を持った。また新聞でもゲームブック評を書いている。
しかし,そもそも「シミュレイター」はウォーゲームの雑誌である。別名義ではあったが,近藤氏は元々,シミュレーション・ウォーゲームの記事を書くところから出発した書き手なのだ。
近藤氏は親が転勤族だったので,友人よりも3人兄弟で遊ぶ機会が多かった。幼いときから“本の虫”だった近藤氏は,ゲームブックのような“ゲームと本を組み合わせる”といった発想に親しみがあった。
世代的にボードゲームに馴染みがあった氏は1970年代後半,兄弟でお金を出し合って,輸入販売されていたアバロンヒルのウォーゲーム「スコード・リーダー」を購入する。それを小学校低学年〜中学年の弟たちでもプレイできるように,サマリーを作ったり,ルールを再デザインしたりしていたそうだ※1。
こうした経験や,漫画家の多かった大泉学園を拠点としていたこともあり,“ものを書く,本を作る”という文化に自然と親しみを持っていた。そうして学生時代にシミュレーションゲームの同人誌を作るようになり,そこから鈴木銀一郎氏(2021年没)の翔企画や,黒田幸弘氏のレックカンパニーといった編集プロダクションやクリエイター・グループへ出入りするようになった※2。
第一期の「シミュレイター」誌では,別名義でウォーゲームの攻略記事を書いている。お気に入りのタイトルは,チリの作家ロベルト・ボラーニョが同名の小説(2010年)を題材にしたことで知られるアバロンヒルの「第三帝国」(1974年)だ※3。
近藤氏はまた,「タクテクス」(ホビージャパン)でも記事を書いており,若手ながら業界のハブのような存在となっていた。
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近藤氏の評論スタイルは,一義的な評価軸で作品に点数を付けるようなものではなく,見るべきポイントをバランスよく取り上げていく,というものだった。
そうした“視野の広さ”が評価され,「ウォーロック」創刊準備の会議では,田中氏・安田氏・多摩氏の満場一致で,近藤氏の名前が挙げられ,第1号の会議から参加してきたという※4。
こうして創刊号から連載「ゲームの殿堂」がスタートした(1986年6月の30号まで)。とくに大きな反響があったのは,9号(1987年6月)の「暑さと食糧と感想文問題」だ※5。
これは1987年1月に現代教養文庫から出たばかりのM・アラビー「君ならどうする・食糧問題」(河合良・近藤和子訳)を題材に,夏休みの読書感想文を書こうというもの。学校側から与えられる課題図書に抵抗のある読者でも,好きなゲームブックならば抵抗なく取り組めるし,具体的な作例や守るべき感想文の“カタチ”,結論をどう締めるべきかが書かれていた。
「これは役に立つ」と,編集はおろか,ふだんは近藤氏の書くものに感想を示さない営業部の社員などからも好評だったそうだ※6。
このエピソードからも分かるように,近藤氏は読者の視点に立つことを旨とする批評家だった。評論では常に「ゲームをプレイする楽しさ」に重きを置き,バランスのよい論を展開している。
近藤氏は1987年に自身の制作プロダクション,冒険企画局を創立するが,その設立理念は「ゲームの楽しみ方」を多くの人に伝えることにあった。ゲームをゲームたらしめるのはクリエイターだけでなく,プレイヤーあってこそという信念である。
そのスタンスは「ドラゴンマガジン」誌(富士見書房)の連載をまとめた「やっぱりRPGが好き!」(1992年)などにも,よく表れている。
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そんな近藤氏は,「ウォーロック」誌ではシリアスなゲームサポートだけではなく,遊び心あふれる記事を寄せることも多かった。
実際に金山を探検してしまう「秘境“黒川鶏冠山”に幻の『黄金』を求めて」は,山岳部出身の近藤氏ならではの記事といえるが,こうした破天荒な記事に編集部の取材費が使えたのは,「ウォーロック」の懐の深さゆえだろう。
2代目編集長になってからは,トップダウン型の情報提供だけでなく,投稿雑誌「ファンロード」(ラポート)のような読者参加型の雑誌にすべく,改革を心がけたという※7。
※1〜7:近藤功司氏の証言に基づく。
30 1980年代ゲームブックブームの終焉
1990年に入ると,ゲームブックは年間30点ほどしか刊行されず,「ファイティング・ファンタジー」も「奈落の帝王」(齋藤ひろみ訳,1990年3月30日)が出たのみだった。
年末の12月30日にはAFFの基本ルールブック(マーク・ガスコイン&ピート・タムリン,上巻,安田 均訳)が出たが,アナログゲームのトレンドは1人用のゲームブックから多人数のTRPGに移っており,より複雑なタイトルを求める傾向も加速していた。
また海外の重厚な世界観を翻訳・紹介し,それに応接しようとするものから,比較的身近で“ライト”な日本オリジナルのファンタジーを元にリプレイや小説を書き,それをコミカライズ・アニメ化するマルチメディア展開を目す形へ変遷していったのである。
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現代教養文庫による最終33巻は「天空要塞アーロック」。これは初刷8000部が出たのみで重版もかからなかったうえ※1,訳者の坂井星之氏も,これが最後になるとは知らされず,ひっそりと翻訳展開が打ち切られた形であった※2。
1人用翻訳もののもう一つの柱であったT&Tも,ソロアドベンチャーは8冊目の「嘆きの壁を超えて」で刊行を終えている。
AFFでは,小説「ロガーンの子,ガラナの子」を「RPGマガジン」1990年11月号(ホビージャパン)で発表した,下村家惠子氏によるシナリオ集「タンタロンの立方体」(1991年5月1日)と,山本 弘氏によるリプレイ「タイタンふたたび」(1991年12月1日)が,それぞれグループSNEとの共著で刊行された。
原作のAFF初版が,シーン制のシナリオ展開などを取り入れた革新的なシステムだったのに対し,リプレイやシナリオは基本を押さえた,良い意味で“国産ならでは”のオーソドックスな内容であった。ゲームブックの設定があるため,初見の読者にはどうしてもハイコンテクストになってしまう都合上,奇をてらうのを避けたのだろう。
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「ウォーハンマー」は,ミニチュアゲームが原作のTRPGだが,A4変形の原著を日本語版では文庫の3分冊として発売。各巻は500〜600ページにもおよび,あまりの分厚さから“サイコロ本”とも呼ばれた。
現代的でパンクなドイツ風の世界観,150種類を超えるキャリア(職業)に,混沌という魅力的な敵役がいたものの,トレンドの変遷に疲弊した田中氏らの決定により,「ウォーロック」は1992年3月の63号で休刊となる。現代教養文庫からのゲーム関連書籍も,1994年の「RPGシティブック」が最後であった。
休刊の原因はなんだったのか。安田 均氏が当時の舞台裏を語ってくれた。
実際,「ウォーロック」63号の記事を見ると,まだまだ展開が続けられそうなのに,無理にまとめたようなものが目立っている。
また安田氏が主導するグループSNEの面々が,総力を結集して「ウォーハンマー」のサポート記事を打ち出す一方で,近藤氏の冒険企画局によるコミック連載や,ライト層を意識した記事が並んでいるのである。
「ウォーロック」の末期(58号,1991年10月〜61号,1992年2月),塩田信之氏と共に「ゲームブック製作講座」を連載した健部伸明氏は,当時の風景をこう回想する。
双葉社のファミコン冒険ゲームブックは,FFシリーズのような翻訳作品を愛する読者からは,軽んじられることもままあるシリーズである。むしろ,その著者を積極的に起用しようとしたところに,新たな風を吹かせたい近藤編集長の目論見が感じられる。
いずれにせよ社会思想社のマンパワーでは,ブーム終焉後に2つの路線を両立させるのは困難だったのだろう。なおグループSNEと冒険企画局は,2016年に「トンネルズ&トロールズ完全版」で再びタッグを組むことなる。これが「ウォーロック」のリバイバルへ繋がっていくのだが……それはまだ先の話である。
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あるいはTRPGに通じ,「ドラゴンクエストII」のゲームブック化(エニックス文庫,1989年,下巻は和智正喜氏との共著)で定評があった健部伸明氏の「カイの冒険」(山下武師(山本 剛)氏との共著,1990年)や,伊藤武雄氏・茂木裕子氏・宮原弥寿子氏といった,創元ゲームブック・コンテスト第1回(1986年)&第2回(1987年)の入賞作家たちの応募作が,じっくりとした改稿を経て刊行されていった。
それらの多くには,渡辺正久氏のような読者投稿出身者の挿絵が付され,イラストレーターの登竜門となった側面もあったようだ(表紙絵はSFアートで定評のあった三好道夫氏とのコンビが多かった)。 しかし第3回(1989年)では,受賞作を出せるほどに応募が集まらなかった。
その後,文庫でのTRPGブームへとつなげるべく,「ホワイト・ドワーフ」誌でサポートされていた「ゴールデン・ドラゴン・ファンタジー」の背景世界・レジェンドや,富士見ドラゴンブックの多人数用ゲームブック「ブラッド・ソード」(全5巻中4巻が邦訳。日本語版は1988〜1989年刊)とも連動したTRPG「ドラゴン・ウォーリアーズ」を展開。本田成二訳,健部伸明監修という強力な布陣で臨んだものの,全6巻の刊行を予定していたシリーズは,結果的に3巻までで終了している。
サポート媒体を投げ込みの小冊子「アドベンチャラーズ・イン」しか持たなかったことから,プレイ方法を充分に伝えきれなかったのが,その一因だろう。同誌では星宮すみれ氏など実力ある書き手が育ったものの,ブームの衰退については如何ともしがたかったようだ。
東京創元社のゲームブックの最終作は,新井一博氏&堀 蔵人氏の「第七の魔法使い」(1992年)であった。
第2回創元・ゲームブックコンテスト入選作の改稿だったこともあってか,新藤氏の筆になる同書のあとがきでは,創元ゲームブック・コンテストの応募作が第1回では100点以上あったのに,第3回では30点にも満たない数になったことに,「驚きとともに失望を禁じ得ませんでした」と,率直な感情が綴られている※6。
そんなことはないと私は考えます。ゲームブックやRPGといった、こんな面白いゲームの形式がなくなるなんて、考えられません。いっときの大流行はたしかにバブルだったかもしれませんが、純粋なファンのみなさんがゲームブックやRPGを支持してくれているいまの状態が、本当の姿なのだろうと思います。
というわけで、数はそんなに出せないでしょうが、これからもゲームブックやRPGの刊行は続けていきます。期待してください※7。
このように,新藤氏は「第七の魔法使い」のあとも継続への意欲を見せたものの,実際に同社からの続刊が読者へ届けられることはついぞなかった。
二見書房は1987年をもってJ・H・ブレナン作品の刊行を一段落させたのち,別の著者が発案したものの途中で放棄された企画を,フーゴ・ハル氏が数年がかりでまとめ直し,文庫として刊行している。それが,手描きの鉛筆画によってタクラマカン砂漠の迷宮都市ルドスを丸ごと3Dダンジョンとして表現した「魔城の迷宮」(1989年)である。
以後,1993年には映画「ジュラシック・パーク」のゲームブック(J・P・クルーズ,岡田良記訳)を,1996年には「シャーロック・ホームズ ボードゲーム 切り裂きジャック事件 ドンヒル邸殺人事件」を箱入りでリリースした。
二見書房のゲームブックのほぼすべてに関わったフーゴ・ハル氏によれば,「少年探偵団もののゲームブックとか出す計画もあったのですが,なんとなく縁が薄くなった。つまり二見がゲームブックへの関心をなくしていった感があります」※8と,徐々に版元が手を引いていったことを示唆している。
※1:安田 均によるTwitterでの発言,2021年1月24日。
※2:坂井星之氏の証言に基づく。
※3:安田 均氏の証言に基づく。
※4〜5:健部伸明氏の証言に基づく。
※6〜7:K・T(新藤克己)のあとがき,新井一博氏&堀 蔵人「第七の魔法使い」創元推理文庫,1992年。
※8:フーゴ・ハル氏の証言に基づく。
31 ゲームブック衰退の理由
ゲームブックのブームはなぜ終焉を迎えたのか?
粗製乱造ゆえに飽きられた,デジタルゲームが高度化したからなど,さまざまな要因が語られるが,実際の版元サイドがどうだったのかを,東京創元社の小浜徹也氏が端的に語ってくれた。
こうして作り手側は,徐々にモチベーションを削られ,逆風を跳ね返すだけの意気込みを持てなくなったのである。鈴木直人氏のように高く評価された作家も,労力に見合う反響がないからか,徐々にフェードアウトしてしまった。
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ジャクソン&リビングストン両氏の帰国以後,社会思想社の西山克幸氏が「馴れない雑誌展開やコンベンションの仕切りなどで,もうへとへとです」とぼやいていたという関係者の証言がある。めまぐるしく移り変わる状況に,もともとゲーム畑でなかった社会思想社側は,擦り切れてしまったのかもしれない。
ただ社会思想社は,新作を出さなくなっても長くゲームブックを売り続けはした。東京創元社のゲームブックは断裁されたためか,遅れてゲームブックに手を出した読者は,古書市を回って現物を確保するしかなかったが,社会思想社のタイトルは在庫が潤沢で,書店注文すれば入手することができたのだ。このような版元は珍しい。
ただ筆者の経験に照らせば,大書店の店頭在庫として残っているものは背表紙がくすんだ(買い切りと思しき)ものばかりであったし,新刊として置かれているのは中世イギリスを舞台にした推理小説「修道士カドフェル」などが収録されたミステリ・ボックスシリーズばかりだった。
巻末の広告では,神話・伝承がらみで「モンスター事典」への言及があったが,FFへの言及は意図してか外されていた。
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ゲームブックやTRPGから入ってきたファンターゲットにした小説叢書「アドベンチャー&ファンタジー(A&F)」も,「眠れる竜」(ジョエル・ローゼンバーグ,浅羽莢子訳,日本語版1990年)や,「ドラゴン探索号の冒険」(タニス・リー,井辻朱美訳,日本語版1990年)など,重要な作品を刊行していたが,1996年の「目ざめよ〈能力者〉!」(ダグラス・ヒル,安野 玲訳)で途絶えてしまった。
末期の社会思想社の本で,とくに店頭で目立ったのは佐高 信氏の「タレント文化人100人斬り」(1998年)だろうか。もちろんジャック・ロンドンの小説の翻訳なども刊行されていたが,あまり話題にはならなかった。その後,店頭では自由価格本(いわゆるゾッキ本)としてしか同社の本を見なくなったと思ったら,2002年に倒産の報が流れたのだった。
不幸中の幸いというべきか,同社の書籍で支持が根強いものは,文元社・紀伊國屋書店からオンデマンド本として復刊が行われている。ゲームブックは含まれないが,幻想文学や神話関係の本もあるので,興味のある人はチェックしてみよう。
- 関連タイトル:
ファイティング・ファンタジー・コレクション
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