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伝説の業界関係者達が語った“デジタルゲーム登場以前のゲーム業界”とは? 「日本デジタルゲーム学会 2010 年次大会」基調講演をレポート
![]() 池袋のロサ会館。かつて,太東貿易(タイトー)がアミューズメントマシンのロケテストを行っていた |
![]() 日本デジタルゲーム学会理事/東京工芸大学教授 岩谷 徹氏 代表作:「パックマン」ほか |
![]() 日本デジタルゲーム学会理事 遠藤雅伸氏(モデレータ) 代表作:「ゼビウス」「ドルアーガの塔」ほか |
![]() ドリームス 西角友宏氏 代表作:「スペースインベーダー」ほか |
![]() バンダイナムコゲームス 石村繁一氏 代表作:「ジービー」「ギャラクシアン」ほか |
エレメカもビデオゲームも発想は同じ。技術の進歩と時代背景により表現手法が変わっただけ
![]() 岩谷氏による「ナムコレポート」。会場では,一部だがその内容が披露された |
岩谷氏は,ゲーム業界の昔話の中には“残していかなければならない事実”があるのだが,残念ながら記録や技術的な部分に関する論文が残っていないと述べる。さらに岩谷氏が現在携わる教育の場においても,当時の映像がないため教材が不足していることを痛感しているとのことで,今回の講演などを含め,記録や論文をきちんと残していくことが急務であり,DiGRA JAPANの使命でもあると述べる。
![]() ピンボールとジュークボックス |
岩谷氏はレポートの内容を踏まえて,ゲームは突如アイデアが湧き商品として世に送り出されるわけではなく,「こういう時代背景だったから,こういうゲームが生まれた」「この時代の技術がこうだったから,こういう表現になった」といった社会との関連性が必ずあると述べた。
最初の題目は,ビデオゲームが登場する以前,日本のゲーム業界がどういう状況だったのかについて。当時は,太東貿易(タイトー)やサービスゲームスジャパン(セガ)が海外からピンボールやジュークボックスを輸入していた頃で,西角氏は主に機器のメンテナンスに携わっていたという。
続いて昭和30年代に中村製作所(ナムコ)が扱っていた木馬の乗り物(料金は1回5円)や,セガのエレメカ「ペリスコープ」が紹介された。岩谷氏は,それぞれについて「小さな子どもが,木馬に揺られることで,動物に乗っている感覚を得る。これは一種のバーチャルリアリティで,現代のゲームにも通ずる」「ランプが付いて魚雷が飛んでいく様を示す。これが,のちのエレメカ『サブマリン』や,米Midwayのビデオゲームの原点となった」と説明。続けて「テーマは一緒だが,その時代の技術に合わせた表現になっている」とまとめた。
※エレメカとは,エレクトロメカニカルマシン(Electromechanical Machine)の略で,モグラ叩きやエアホッケーなど,画面表示をメインとしないアーケードゲームのこと
![]() 木馬 |
![]() エレメカ「ペリスコープ」 |
![]() 「ナイトドライバー」 |
しかしそんな中で登場したAtariの「ナイトドライバー」は,車体の後方から視点を採用し,迫ってくる道路を四角を使って表現するというもの。岩谷氏は「この先,左右どちらに曲がるか分からない中で,いかにスピードを上げていくを競い合う。これが熱くなるんです」と,当時の興奮を語った。
![]() エレメカ「F-1」筐体 |
![]() エレメカ「F-1」。コースは常に左回りだった |
![]() クラッシュすると画面が切り替わり,電子音のSEが流れる。西角氏によると,昔はドラを鳴らしていたとのこと |
なお「F-1」では,光源用ランプを特注し,ドライバーたるプレイヤーの視点を下げるよう工夫していた。これは,視点が路面に近づくほどレースの臨場感が増すという理由によるもので,現在の多くのレースゲームにも採用されている考え方の原点と,岩谷氏は述べる。
![]() 筐体内部。中央のパーツが真円ではないため,ゲームでは敵の車体が左右に動く |
![]() 前述した特注ランプ。「F-1」は大ヒットとなったためにコピー品が出回ったが,ランプまではコピーできなかったそうだ |
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その話を受けて石村氏は,当時のテレビはまだ特別な存在であり,その中で自分達がゲームとして何かを動かせるというのは大きな驚きであり,感動だったと当時を振り返った。
また岩谷氏は,エレメカの料金が1回あたり30円程度だったことに言及し,ビデオゲームでは100円なので,その分楽しさを提供しようとして,さまざまな付加価値を持たせようと世界観に凝っていたと説明する。ゲームを進めると中ボスが登場し,それを乗り越えるとまた少し難度が上がるといったように作り込んでいくことで,エンディングに到達するまで数十時間にも及ぶような現在の長いゲームになっていったわけである。
ここで話は,またエレメカに戻る。西角氏は,自身が手がけたエレメカ「スカイファイター」を紹介し,「自分では『スペースインベーダー』よりも評価している」と述べる。その理由として,西角氏は,それまで手がけたエレメカは北米産の他社製品に大きく影響を受けてきたが,「スカイファイター」は完全オリジナルだったことを挙げた。またそうであるがゆえに,表現や演出にかなりの労力を費やしたとのこと。西角氏は戦闘機での空中戦の経験などないのだが,かつてゼロ戦に搭乗した経験のある人が「スカイファイター」をプレイし,そのリアルな感覚を絶賛したこともあったそうだ。
![]() エレメカ「サブマリン」の演出を説明する岩谷氏 |
![]() エレメカ「スカイファイター」の構造を説明する西角氏 |
西角氏の話を受けた岩谷氏は,「ビデオゲームなら簡単にできる演出を,エレメカでは機械的/電気的にいろいろ工夫していた」と述べ,例として「サブマリン」を挙げた。このエレメカでは,ランプを使った魚雷の挙動や,金網上のパーツを2枚使って波の様子などを表現していたという。また遠方の大型戦艦に魚雷が命中すると,筐体内部で容器に入った不凍液をかき回す仕掛けになっており,そこにランプの光を当てることで炎のユラユラ感を表現していたそうだ。
こうした当時の努力を総括し,西角氏と岩谷氏は「特撮映像の演出のように,あるもので何とかしようと工夫を重ねた」と述べる。また西角氏は「スカイファイター」をビデオゲーム化した「インターセプター」をのちに手がけるが,エレメカで創意工夫を凝らすほうが遥かに面白かったと語っていた。
![]() 「スピードレース」。CPUを使わず,ICのロジックで動作する |
![]() 「インターセプター」。西角氏曰く,平面的で面白みに欠けるとのこと |
「ブロック崩し」のシンプルな衝撃から生まれた「スペースインベーダー」
![]() 「ガンファイト」 |
初めてCPUを使ったビデオゲームとして紹介されたのは,米Midwayの「ガンファイト」。原案は西角氏の「ウエスタンガン」だったが,米Midwayにライセンスしたところゲーム内容に手が加えられてしまった。西角氏は「日本ではまったく売れなかった」と説明する一方で,それまでゲームを作るには基板から作らなければならなかった点に言及し,「我々は楽しかったが,非常に効率が悪かった。ソフトウェアを書き換えるだけで別のゲームができるCPU技術は画期的だった」と述べた。
なお石村氏によると,ナムコではかなり早くからCPUによるソフトウェア書き換えを構想していたが,結局,1985年頃まではゲームタイトルごとに専用の基板を作っていたとのこと。
題目は,時代を少しさかのぼってCPU登場以前のビデオゲームの話に。
当初は「ポン」同様,パドルを操作するゲームが多かったが,西角氏は米Atariの基板を解析したと説明し,他社も同じだったのではないかと推測した。
最初は北米産のICを解析してコピーしてみるのだが,やはりそのまま使うのはプライドが許さず,ちょっと改造していたと西角氏は当時を振り返り,「ポン」に外枠とゴールを付け,フォワードとキーパーを用意してサッカーゲームに仕立てたエピソードを披露した。
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しかし西角氏は,自身がヒントにした「ブレイクアウト」もオリジナルとはいえないと続ける。ほぼ同じアイデアは「クリーンスイープ」というビデオゲームで実現されていたが,ターゲットが小さかったり,連続してターゲットが消えていく爽快感がなかったりといった部分で,ヒットしなかったのではないかと分析。続けて「同じアイデアでも少し変えるだけでずい分違ったゲームになる。“温故知新”で,古いゲームも新しいものを作り出すヒントになるのではないか」と述べる。また岩谷氏も「新しいものに飛びつくだけでなく,社会に問われた技術や昔の遊びを見直してみることも重要である」と続けた。
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また石村氏は,当時のナムコが汎用的なゲーム開発の仕組み作りに取り組んでいたと述べる。今でいうビットマップ,キャラクターディスプレイ回路,小容量のメモリを使って16×16ドットの絵を表示し動かす回路……そういったものを組み合わせて,かなりの部分を実現できるハードウェアを開発していたとのこと。その1作目として登場したのが「ジービー」である。
やがて米Atariが上記の「ナイトドライバー」でラインバッファ方式のオブジェクト(スプライト)処理を採用したことを受けて,のちの「ギャラクシアン」に搭載される回路を開発した。
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しかし,そうした挑戦の一方で,アナログSEのため,使っている素子が変わると音質も変わってしまうといったように,調整をしないと上手く動かない──すなわち量産に向かないといった欠点も生まれた。その反省を踏まえ,設計時点から安定と量産性を考えて作ったのが「パックマン」とのこと。
なお「スペースインベーダー」は表示にビットマップを採用しており,弾が当たって欠けていく表現はやりやすいが,書き換えのスピードが遅いという欠点を持っていた。西角氏は,「ギャラクシアン」を見たときに三度目の衝撃を受けたという。すぐにそれを超える新たなゲームを手がけたかったそうだが,タイトーでは「スペースインベーダー」の基板を大量に生産していたため,しばらくそれを使ったゲーム作りをせざるを得なかったそうだ。
遊びとしてあり方や,社会との関わり方について考える段階に入ったゲーム業界
会場では,聴講者からの質問に登壇者4名が答えるコーナーも設けられたので,抜粋して紹介しておこう。
まず,テーブル型のビデオゲーム筐体については,西角氏によると当時の営業担当者の発想であるとのこと。テーブル型にすることで喫茶店などに導入できるようになった結果,「ブロック崩し」「スペースインベーダー」をはじめビデオゲームのヒットに繋がったと,登壇者達は説明する。
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しかしテーブル筐体が普及する一方で,上方から照明を当てると反射して画面が見にくくなってしまうので,室内を暗くせざるを得ず,その影響で犯罪に繋がるようなことが発生するようになったと石村氏は述べる。
関連して石村氏は,ゲームが発展を遂げていく中で,賭博の要素を持つなど,風営法に触れるようなものが登場するようになったと指摘。そうしたさまざまな社会背景の中,ゲーム業界が未熟だったこともあり,ゲームセンターは法の規制を受けることになっていったと続けた。また現在は,照明が明るくなるなど,ゲームセンターも健全な場として認識されつつあるが,未だ12歳未満の子どもは保護者の同伴があっても18時以降入場できないというような,厳しい条例や規則が設けられている地域/店舗がある点に関しては,「そろそろ何とかしてほしい」との見解を述べた。
石村氏の言葉を受けて,岩谷氏は,かつてコピーゲーム機が暴力団の収入源となっていた時代ならともかく,今となってはゲームセンターが規制の対象となるのはおかしいと述べる。ほかにも,過去には「ゲーム代欲しさに万引きした」という事例があったが,万引きという行為が犯罪なのであって,ゲーム自体に落ち度はない。「腹が減っていたのでパンを万引きした」「漫画が読みたかったから万引きした」からといって,パンや漫画に何か規制をかけるのかといったら,そんなことはないわけである。
岩谷氏は,「まだまだゲームが認知されていない時代であったし,今でもその傾向はある」と述べ,DiGRA JAPANの活動の中でゲームの地位向上を訴えていかなければならないと述べる。続けて,昨今進められている漫画やアニメの規制に触れ,今後は表現の自由についても考えなければならない段階に入っていると続けた。そしてDiGRA JAPANでも技術的な議題だけでなく,遊びとしてのゲームのあり方や,社会との関わり方について議論していかなければならないとまとめた。
講演の最後には,遠藤氏が再び「ナムコレポート」に言及し,何らかの形でドキュメント化を実現して,多くの人が参照できるようにしたいと展望を述べた。また,これ以外にも過去の事例を続々とドキュメント化していくとのことで,聴講者達に協力を呼びかけ講演を締め括った。
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「DiGRA JAPAN」公式サイト
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