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板垣伴信氏 追悼企画。「勝つ」ことにこだわり,モノ作りに執着したゲーム開発者人生を辿る ビデオゲームの語り部たち:第44部
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印刷2026/04/08 07:00

インタビュー

板垣伴信氏 追悼企画。「勝つ」ことにこだわり,モノ作りに執着したゲーム開発者人生を辿る ビデオゲームの語り部たち:第44部

 「ビデオゲームの語り部たち」第44部は,2025年10月に急逝した板垣伴信氏の,ゲーム開発者人生を辿るものだ。

2011年ヴァルハラゲームスタジオにて
画像ギャラリー No.008のサムネイル画像 / 板垣伴信氏 追悼企画。「勝つ」ことにこだわり,モノ作りに執着したゲーム開発者人生を辿る ビデオゲームの語り部たち:第44部

 人は生まれ,そして,いつか死んでいく。その人生は神様からの「借り物」という人もいれば,「遊び場」という人もいる。「人生は,死ぬまでの暇つぶし」などという言葉もある。古代中国の思想では,「生は寄(き)なり,死は帰(き)なり」,生きていることは仮の宿に住むことであり,死こそ本来の住まいという考えも存在する。

 では,板垣氏にとって,人生の旅はどのようなものだったのか。それは,常に「勝つ」ことを至上としていた人生であり,もしかすると「板垣伴信」自身との戦いだったのかもしれないと,筆者(黒川文雄)は考えている。

 本記事は,生前の板垣氏と親交があった以下の4名に,氏の人生について聞いた。

  • スクワッドスターズ 代表取締役社長 岡本好古氏
  • ロックスピリッツ 代表取締役 / アンチョビ 執行役員 CSO 兼松 聡氏
  • ソフトギア 代表取締役CEO 青木健悟氏
  • コーエーテクモゲームス 取締役副社長 早矢仕洋介氏


■スクワッドスターズ 代表取締役社長 岡本好古氏

板垣氏との出会い,新入社員研修最終日


画像ギャラリー No.022のサムネイル画像 / 板垣伴信氏 追悼企画。「勝つ」ことにこだわり,モノ作りに執着したゲーム開発者人生を辿る ビデオゲームの語り部たち:第44部
 岡本好古氏は,テクモ時代から板垣氏と交友のあった人物だ。
 もともとは,大学生の時に考古学(イタリアのエトルリア文明)を専攻していたが,考古学者だった父親から「ロマンはあるけど,まったく儲からないから,死ぬほど好きでないならほかの道に進め」というアドバイスを受け,幼少の頃より好きだったゲーム業界を志した。
 それが1990年代後半の話で,ゲーム業界はまだ歴史が浅く,安定した就職先とは見られていなかったのだが,岡本氏は「だからこそ面白い」と多数のゲーム会社に応募。数社から内定をもらったなかで,テクモ(当時)に入社を決めたという。

 岡本氏が板垣氏と最初に出会ったのは,テクモの新入社員研修の最終日だった。振り返ると,当時同社の社長を務めていた中村純司氏に目を付けられたのではないかと感じていたそうだ。

 「『ナメられたら負けだ』と勝手に思い込んで金髪にしていたんです。身体が大きいし見た目が派手だったので,『こいつ生意気そうだ』と思われたのか,中村社長が『板垣,こいつに説明したれ』と。2人から『ゲームの仕事とはこういうもんだ』と,さんざん詰められました。未だに嫌な思い出です(笑)。でも内心,板さん(板垣氏)に関しては『なんか弱そうだな……』とは思っていました」

 岡本氏はPS2向けダンスゲーム「UNiSON」の開発を経て,入社2年目には後述する兼松 聡氏の手がける「アルゴスの戦士」のリメイクプロジェクトに参加。兼松氏の自宅に企画書を携えて出向き,大学時代に学んだ古代ギリシャ・ローマの歴史や西洋美術の知識などをアピールしたという。

 「そのプロジェクトが終わった入社3年目に,兼松さんが『お前は生意気だから,板垣のところで根性をたたき直してもらえ』と言い出して。当時のテクモのゲーム開発は3部体制で,第3開発部のTeam NINJAに転部すると,あまりの厳しさから『辞めるか,心を閉ざすか』と言われていたんですよね。
 それでまた『ナメられるわけにはいかない』と思って行ったら,板さんが普通にサングラスをかけていて,『あ,社内でもサングラスなんだ』と(笑)。板さんは板さんで『……ああ,兼ちゃん(兼松氏)の言ってた生意気な奴か』くらいの感じで。

 それはともかく,板さんが『オレ,明日からE3でアメリカに行くから,何かやっとけ』と。でも,ほかのスタッフは自分が加わることを知らされてなくて。それで,まずは全員に一人づつ挨拶して顔と名前を覚えることから始めました」

James Mielke氏,初代NINJA GAIDEN ディレクターの松井氏と(2003年5月16日ロサンゼルス)
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  Team NINJAでの岡本氏の最初の仕事は,昼間は「NINJA GAIDEN」のバグチェックのマネージャー,夜は板垣氏と2人でバランス調整を施すことだった。
 (その後,「DEAD OR ALIVE 4」のオンラインパートの企画,「NINJA GAIDEN 2」のレベルデザイナー兼プロデューサーを務めることになる)

 「アメリカから帰ってきた板さんが『今日からオレとお前で調整するぞ』と。応接室に,板さんが開発ビルドをプレイする環境が用意されていたんですけれども,そこで『ここの敵の数を増やせ』『画面にゴミみたいなものが表示されるので消せ』『ここのフレームレートはこうして対処しろ』という指示が出るので,全部メモしてチームに共有していました。たまに『お前もボス戦やってみろ』みたいな感じで自分もプレイしてみて,『この攻撃は理不尽ですね』とか言ったりもしていましたね」

 そうした作業が1年近く続き,岡本氏は3か月に1回程度しか自宅に帰れなかったそうだ。「働き方改革」を掲げる現在の日本では考えられない過酷な労働環境だが,その一方で板垣氏が岡本氏を全面的に信頼していなければ,こうはならなかっただろうとも思えるエピソードである。

 「何で自分だったのかは,よく分からないんです。へこたれないというか,何でも楽しんでしまう性格なので『こいつはメンタル強いから,ある程度無茶をさせても大丈夫だろう』みたいな印象があったんでしょうね。

 あと板さんは,尖った人や歪な人を愛する傾向があるんです。新人歓迎会のときに一度,板さんから本気で怒られたことがあるんですよ。板さんが怖そうだから誰も近くに行かないので,しかたなく自分が行ったら『お前,女衒(ぜげん)って知っているか』と聞いてきたんです。

 それで『DEAD OR ALIVE』を引き合いに出して,『キャバクラみたいな格闘ゲームだから,あれも女衒のようなものですか』と言ったら『バカもん!』だったか『大バカもの!』だったか,とにかく大声で怒鳴られて。そんなこと他人から言われたのは人生で初めてでしたよ(笑)。
 そのときの印象があったから『あのとき怒った変なやつが,兼ちゃんのところから来た。でも元気なやつだな』くらいに思っていたんじゃないでしょうか」

 実際,岡本氏は板垣氏から「オレの弟」「オレの息子」と言われるくらい親密になっていく。板垣氏が2008年にテクモから独立して設立したヴァルハラゲームスタジオや,その開発協力会社として設立されたソレイユでも,岡本氏は重要な役割を担っていた。

 「板さんのほうが9歳くらい年上だったのかな? 当時のTeam NINJAには,ほかにも板さんと濃い関係を築いた人もいましたけど,自分は20代後半から25年くらいずっと一緒でした。
 30代の10年間は,大げさじゃなく週5で仕事が終わったら一緒に飲みに行っていましたね。それで午前2時3時に老舗のカレー屋に行って,マトンカレーをつまみにウイスキー飲んで1日を終えるなんてことをやっていました。
 今振り返るとクレイジーだけど,板さんは『クレイジーな奴じゃないとゲームは作れない』みたいなことを言っていましたから。自分も板さんを尊敬していたので,『そういうもんなのかな』って。自分を正当化していたんでしょうけど(笑)」

「DEAD OR ALIVE 4」マスターアップ後,James Mielke氏の自宅でプレイ(2005年サンフランシスコ)
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岡本氏から見た板垣伴信という人物


 板垣氏が率いていたTeam NINJAはまるで軍隊のようで,テクモのほかの開発部とはまったく違っていたと岡本氏は振り返る。

 「板さん本人がミリタリーや戦記モノが大好きだったので,パットン将軍やナポレオンを例に挙げて『リーダーたる者は……』みたいな話をよくしていました。板さんのやり方を誰でもできるかと言われたらできないけれど,でも板さんが言っていた本質的な部分は,おそらくすごく大事なことだったんです。

 今,日本のゲーム業界はあまり状況がよくない感じですが,板さんは『売れるとか面白いものを作るとかじゃなくて,勝つんだ』と言っていたんですね。勝たないと先がない,じゃあ勝つためにはどうしたらいいのかと考えたときに,面白いものやユニークである必要があるし,セールスを伸ばす必要もある。ライバルは潰さなければならない半面,ライバルがいたほうが勝率が上がる。
 板さんが上手だったのは,やはり『勝つ』という言葉を選んだことですね。当然ビジネス面は避けて通れないけれども,相手がクリエイターだからあまりビジネスの話ばかりだと冷めてしまう。それを『勝つ』と表現して納得させていたんです」

 2008年,板垣氏はテクモに対し,未払い報酬や名誉毀損による損害賠償を求めた訴訟を起こす。結果として,板垣氏はテクモから離脱することとなった。

 「当時のゲーム業界は,陽の当たらないところで生きているような人達が作っていたようなものだったのに,テクモが上場して金融関連と関わりを持つようになっていったから,板さんには違和感があったんだと思います。『何で銀行から来たやつが社長になるんだ』って。
 確かに裁判は起こしたと思いますけど,自分から見た板さんは金銭に固執するような人じゃなかったんですよ。むしろ誇りを傷つけられたり,お金に関して小手先で何かされたりすることに腹を立てるタイプだったんです。お金が欲しいわけじゃない。贅沢なんて全然していませんでしたから。

 ゲーム開発は泥臭い,脳みその肉体労働みたいなものだと捉えていたので,『血も汗も流したことのないやつらは,オレらの仕事の大変さを分かってない。この仕事は命を削ってやっているんだ』という思いがあったかもしれないですね」

 その一方で,テクモ時代の板垣氏はセクハラで元社員から訴訟を起こされたりもしている。

 「自分は板さんがセクハラしているところを実際に見たことがないので,事実だったかどうかは正直分かりません。でも板さんは,性別問わず人に対する情が深かったんです。男性でも普通に抱きしめたりしていたんですよね。そういった行動が女性に向けられたとしたら,問題になることもあったかもしれません。
 板さんは基本的に女性を尊敬していました。女性を神格化していて,それは『DEAD OR ALIVE』にすごく表れています。女性に憧れているから,かすみやあやねの造型にもすごくこだわっていて。そういえば,松本零士先生の『銀河鉄道999』のメーテルもすごく好きでしたね。

 先日開催された板さんのお別れ会で,彼が生前好きだった沢田研二や忌野清志郎といった歌手やミュージシャンの曲を集めて流したんです。それらの曲の歌詞には,板さんを表すような言葉がたくさん入っているんですよね。『勝つんだ』という男性的な言葉がある一方で,『抱きしめたい』『愛されたい』みたいなウェットな言葉もある。それが板さんという人間だったのかなと思います」

尊敬していた松本零士先生との記念写真
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 板垣氏は非常に繊細な人物だったとも,岡本氏は語る。

 「すごくデリケートでしたね。だからさっきまで怒っていたのに,すぐゲラゲラ笑ったりと,機嫌がコロコロ変わる。でも後腐れはない人でした。
 アンテナを細かく張り巡らせていて,いろんなものをキャッチアップするんですよ。ここでしゃべっているのに,『あそこにいるやつが気になる』とか『変な音がする』とか。過敏過ぎるというか,よく言えば研ぎ澄まされているのが板さんの感性で,インプットするという意味ではすごくいいことかもしれないけど,人によっては疲れるだろうなと。58年間,そうやって人の何倍もインプット,アウトプットしてきたのだから,きっと生き切ったんだろうなと感じます」

 板垣氏と言えば,サングラスに長髪,スリムで派手なファッションと,まるでロックスターのようなルックスも特徴的だった。
 しかし筆者の記憶では,板垣氏がセガの業務用基板「MODEL2」を用いて「DEAD OR ALIVE」を開発していた当時は,普通のゲーム開発者然としていた。ルックスが変わるのと並行し,たとえば格闘ゲームのライバルである「鉄拳」シリーズと,そのプロデューサーだった原田勝弘氏に挑発的な言葉を投げかけるなど,言動も変わっていったように思う。

 「ルックスや言動を変えていったのは,やはり『勝つため』とよく言っていましたね。ゲームに耳目を集めるには,作った人が矢面に立ってメディアやファンの対応をするのが一番ですから,特徴的なルックスや過激な発言をしていたわけですが,最初は好んでやっていたわけではないと思います。

 最初は仕事の一環として目立つことを始めて,板さんのイメージやブランドが確立してきたときに『そんなに悪いもんじゃねえな』と思ったんじゃないかな。そういう話をしたことがないんですけど,『これはこれでいいか』みたいになったんじゃないでしょうか。
 国内よりも,とくに欧米でのウケを意識していたんですよね。チームの名前に“NINJA”というワードを使ったのもそうですし」

 実際,板垣氏の訃報が世界中に広まったときは多数のファンがSNSにコメントを投稿していたが,とくに海外のものが多いように見受けられた。

 「ファンはすごく大切にしていましたね。そこまでやらなくても,と思うくらいでした。
 たとえばFacebookで誰かが『テクモ時代の初期からのファンなので会いたい』とコメントすると,一緒に飲みに行ったり。『DEAD OR ALIVE』のバランス調整を手伝ってくれた鉄人プレイヤーも,ゲームセンターで格闘ゲームをプレイしているのを見て飲みに誘ったりしていましたからね。
 よくも悪くも,そこには『勝つためには何でもやる』という打算もあった。そういう人でした」

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「求められる板垣伴信像」を重視して変わっていったモノ作りのロジック


 テクモを退社した板垣氏は,新たな開発チーム「東京バイキング」を設立。このチームは,板垣氏に先駆けること1年前にテクモを退社していた兼松氏の会社と合流し,2010年にヴァルハラゲームスタジオと名称をあらためた。今で言うと,独立した著名ゲームクリエイターを看板に据えたインディーゲームスタジオといったイメージだろうか。

 「当初はパブリッシャ感覚が抜けてなくて,自分たちは結構偉そうにしていましたね。今振り返ると,その裏側で兼松さんがすごく苦労されて人脈や金銭面を支えていたんだろうなと。お金を得ながらゲームを作っていくのはすごく大変なことなんですが,テクモに在籍していたときはそれが分からなかった。当時でも,数億円ではゲームは作れませんでしたから」

 そうした中,ヴァルハラゲームスタジオは「Devil's Third」の開発を進めていく。しかし,板垣氏の標榜する「勝つ」という状況,もっと言えば“板垣ワールド”はなかなか実現できなくなっていったように感じる。

 「資本で言うと,『Devil's Third』のパブリッシャは2回変わりました。そういったお金の話は,潔癖主義の板さんからすると汚らわしいものだったんですけれど,自分達が独立したときにそれはそれで必要なものなんだということを思い知らされたんですよね。『テクモの中にいたからできたんだ……』ということは結構ありました。

 ヴァルハラゲームスタジオは,結局“板垣伴信ゲームスタジオ”ですから,板さんが大看板になって全部やらなきゃいけない。Team NINJAのときも大看板でしたけど,販売プロモーションは専任のスタッフがやっていたように,助けてくれる人がたくさんいたんです。それをすべて板さんがやることになったので,負荷がすごく上がっていった。お金のことは兼松さんが頑張ってくれたものの,ゲームがなかなか世に出ない中,スタジオのイメージ維持を含めていろいろやらなければならなかったのは,相当のプレッシャーだったと思います」

 Team NINJA時代とヴァルハラゲームスタジオ時代では,板垣氏の標榜するロジックが異なっていたのではないかと,岡本氏は語る。

 「もともと板さんは『自分の好きなものをゲームにするのはダメだ』と言っていたんです。
『ミッションを達成するために何を選択するか』が重要であると。でも独立すると,板さん自身の色を求められる。そうなると,板さんの好きなミリタリー,そして『NINJA GAIDEN』のような剣を使うゲームというところで『Devil's Third』を企画し,求められていることに対して応えようとしたんだと思います。それはTeam NINJA時代の『勝つ』とは,また違うロジックだったような気がしますね。

 振り返ると,『まず1本出さなければいけない。しかもそれは頂点でなければならない』という思いが強すぎて,そこが市場と乖離してしまったという感覚ですね。当時はスマホゲーム全盛期だったから,『オレらは少し潜行してちゃんとしたゲーム作るぜ!』みたいな感じでやっていましたが,時間が経つうちにゲームの遊ばれ方が変わり,板さんに求められるものも変わり,それでようやく潜るのをやめて頭を上げたときには『あれ,ちょっと空気感違うな……』と感じたんじゃないでしょうか」

 その一方で,板垣氏は「Devil's Third」の「負け」を認めず,常に「続編を作りたい」と言っていたそうだ。

 「本当は『勝つ』までやりたかったんでしょうね。『DEAD OR ALIVE』や『NINJA GAIDEN』の続編を作るときは,自分が作りたいかどうかではなく『求められるから作る』というスタンスだったんです。ただ『Devil's Third』は,言わば純度100%の子どもみたいな存在だったから思い入れが強かったのかな。そういうタイプの人ではなかったんですけれども,自分の好きなものを詰め込んだゲームでしたから」

2010年6月,カリフォルニア州チノにある航空博物館にて,好きだったP-51ムスタングに搭乗し,飛行も果たす
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 板垣氏が存命だったらどうあってほしかったか,岡本氏の思いも聞いてみた。

 「小説や本を書いてほしかったですね。もともと小説家志望だったんです。板さん自身をモチーフにしても面白いんじゃないかと。ただ正直なところ,生き切った感じがするので,今どうしてほしいというのはないかもしれません。

 本当に強烈な光を発していた人だから,そのぶん影も濃かったはずで。すごく人間的な人でしたね。
 今の時代,誰もがすぐ自分の穴に籠もれるようになって,自分の意見をSNSで発信できるようになって,他人と混ざることなく自分の居心地のいいところにいられるようになりましたけど,それではどこかで先細って続かなくなってしまいます。点があるだけで川のようにはならないから,今はいいかもしれないけど……みたいな状況の中,板さんは川を作ろうとしたんじゃないかな。
 よく言っていたのは『金玉をつかみ合わないと面白いものは作れない』でしたしね。そういった熱量が必要だと。だからリモートワークはすごく嫌いだったと思いますね。顔を合わせて,酒飲んで,お互いに思ったことを言い合って,そこで喧嘩になって仲が悪くなる人もいるけど,でも喧嘩するくらい仲がいい同士じゃないとモノ作りなんてできない。そういう感じでした」

 岡本氏に,あらためて板垣氏はどんな人物だったのか聞いてみた。

展示会での写真(2015年中国北京)
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 「社会に出てからの自分の師匠です。仕事に対しては厳しい,と言うよりも苛烈な人でしたが,娘さんをすごく愛しているような一面もありました。それに仕事モードじゃないときは,くだらないことが好きな人だったんです。頭のよさを褒められるのは嫌いでした。『そんなの当たり前だろ』みたいなね(笑)。

 あとは居酒屋で飲んでいると,よく周りにいる人達に話しかけるんですよね。隣に大学生のグループとかがいると,その会話が自然と耳に入ってくるから,『ここだ!』というタイミングで寅さんみたいに『あんちゃん達さ……』と割り込んでいく。寅さん,好きだったんですよ(笑)。兼松さんをパートナーに選んだのは,人柄に寅さんみたいなところを感じたからなんじゃないかなと思いますね」


「オレは結局,がらんどうだからさ」


 そうやってプライベートをよく知る岡本氏にも,未だ意味を掴みかねている発言があるという。

 「一緒に飲んでいるとき,『オレは結局,がらんどうだからさ』と何回か言っていたんですよね。自分の欲求で生きていた人ではないのは確かですけれども,それを聞いて『勝つ』という言葉も,たとえば『戦争で勝って,快感を覚えて』という意味ではないのかなと。『NINJA GAIDEN2』に骸骨をモチーフにしたボスがいるんですけど,『あれがオレだ』って言うんです。『あのがらんどうがオレだ』と。あれはどういう意味だったのか,今でも分かりません。
 ミッションを達成する意識がすごく強い人だったから,物欲も金銭欲も名誉欲もない。もしかしたら,『欲がない』ということを言っていたのかもしれません。『戦ってきたなかでここまで来たけれども,本当は何でもよかったんだ。楽しければ,酒が飲めればそれでよかったんだ』って。ともかくサービス精神の強い人でした」


■ロックスピリッツ 代表取締役 / アンチョビ 執行役員 CSO 兼松 聡氏

板垣氏との出会いと別れ


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 兼松 聡氏は日本大学商学部卒業後,三菱のグループ企業に7年間勤めていたが,30歳になった1993年にもっと自分にあった仕事を求めてゲーム業界を志した。小学5年生のときにロックバンド・Wishbone Ash(ウィッシュボーン・アッシュ)の3rdアルバム「Argus」(アーガス)に感銘を受けて以来,ロックにのめり込みバンド活動を続けていた兼松氏は,ゲーム開発のサウンド部門を志望していたが叶わず,営業職で何社か内定が出たという。

 その中からテクモを選び入社したのは,「アルゴスの戦士」の存在が理由の1つだったそうだ(※)。

※Wishbone Ashのアルバム「Argus」には「Warrior」(戦士)という楽曲が収録されている

 兼松氏は当初,社内のリストラを進める合理化促進室に配属されるが,やがてアーケードゲームの販売部署に異動となり,板垣氏と出会う。

 「『DEAD OR ALIVE』と『DEAD OR ALIVE++』『DEAD OR ALIVE 2』,あと誰も覚えてないだろうけど『DEAD OR ALIVE 2 MILLENNIUM』の頃です。板垣が作って俺が売るって感じでしたね。

 俺が入社してすぐのとき,板垣が『こんなんじゃダメだ』って先輩に熱弁を奮っていたんですよ。若くて元気のいい兄ちゃんがいるなと思って,そこからまあまあ仲良くなって。よくアイツに呼び出されて,『これ見てください』と開発中のゲームを見せられていました」

 そうこうするうちに,兼松氏はテクモの開発統括に就任。ちなみにこのとき,岡本氏の話にも出た「アルゴスの戦士」のリメイクを決めたのも兼松氏とのことだ。

 「柿原会長(テクモ創業者の柿原彬人氏)に,『今の開発のトップはダメだから,板垣に任せたほうがいい』って言ったら,『アイツはクセがあるから,お前が統括しろ』と言われたんです。俺の管轄は『モンスターファーム』の部署と『影牢』の部署でした」

 板垣氏は,ルックスが印象的な人物だが,実のところコーディネートしたのは,兼松氏である。

 「板垣はね,ファッションには全然無頓着で。それで俺がマルイに連れていって『これ着ろ』って。あと俺の服も着せてね。アイツの葬儀で『板垣さんの服を差し上げます』なんてやっていたけど,ほとんど俺が着てた服なんですよ(笑)。ああいう派手な服を着せて,サングラスかけさせて,ロン毛にして人前に出ろと。

 当時,ほかのゲーム会社には名物クリエイターがいたじゃないですか。そのなかで,テクモも板垣を押し出そうって感じだったんです。頭のキレがめちゃくちゃいいし,話もすごくロジカルだし,わざと攻撃的な発言もできるし,これは面白いぞって。そこに俺が見た目を加えたわけです。中身は板垣自身でしたけどね」

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兄弟分から喧嘩の絶えない夫婦のように


 ゲームクリエイターとしての板垣氏の特徴は,何と言ってもモノ作りへの執着だったという。

 「アイツが一番すごいのは執念ですよ。何があっても絶対に『勝つ』という執念。大学に8年在籍して,ずっと麻雀が大好きだったからか,『負けたくない』という意識がすごかったですね。
 板垣は『勝つ』ために何でもやった。アイツには,自分が勝つために『ついて来られない連中は要らない』くらいの気持ちもあったと思います。そのぶんいろいろな問題も起こして,後始末をさせられた俺は大変だったけど(笑)。」

 柿原会長が2006年に亡くなったことをきっかけに,翌2007年に兼松氏はテクモを退社。同社でパチンコの部署を設立し,圧倒的な業績を上げた経験から,最初はパチンコの開発会社を立ち上げた。そして再び板垣氏と合流し,ヴァルハラゲームスタジオを設立する。

 「俺は座右の銘として,『メイドインジャパンを世界へ』をずっと掲げているんです。日本発のモノで,世界中の1人でも多くの人を笑顔にする。それはテクモで営業をやっていたときも開発に携わっていたときも同じで,板垣もまた同じようなことを考えて世界一を目指していました。

 あと俺はどちらかと言うと『モノを作る場を整える人』で,資金や社員を集めて環境を整えて『さあ,お前が作りたいモノを作れ』というタイプだから,自分でモノを作るわけじゃない。板垣にはモノを作る才能があるから,『一緒に世界で勝とうぜ』って」

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 ヴァルハラゲームスタジオは1作目となる「Devil's Third」の開発に取り組むが,前述のとおりパブリッシャの変更などによって難航する。兼松氏も資金繰りには相当苦労した。

 「結局,俺が35億円くらいかき集めたんですけど,本当に大変でした。それで『これはもう,上場するしかないな』と。でも日本で上場しても面倒だし箔も付けたかったから,日本の会社が上場してない国を探して。それでカナダのバンクーバーに本社を移して上場を目指して投資を募り,そのお金を突っ込んでいましたね。

 最終的に任天堂が『Devil's Third』をパブリッシングしてくれることになったんだけど,岩田社長(任天堂 元代表取締役社長の岩田 聡氏)が『これ,やろう』って言ってくださったから決まったんです。だから岩田社長の急逝で,変わってしまった事情もいろいろあります」

 並行して板垣氏の言動は,少々兼松氏の目に余るものになっていたという。

 「俺が出社すると,板垣が酔っ払っていて,『兼ちゃん,帰ってきたの?』とか言うんですよ。俺はアイツが作ってるモノに対してはあまりどうこう言わないけど,仕事に向かう姿勢についてはうるさかったから,あまり会いたくなかったのかもしれない」

 そして2016年,板垣氏はヴァルハラゲームスタジオを去り,兼松氏とも疎遠になってしまう。
 そんな板垣氏の人柄について,兼松氏にあらためて振り返ってもらった。

 「よく言えば破天荒で,太宰 治的だよね。破滅型というか。周りにいた人達は全員分かっていたんじゃないですか。ただ,もの作りのこだわりと『勝つ』という事への執念は,関わった人間に遺伝子として残してほしいですね。
 俺にとって板垣は最初,弟分だったけど,最後の頃はある意味夫婦に近い感じでしたね。きっと周りは『いつも夫婦喧嘩ばっかりしやがって』みたいに思っていただろうと。とくに岡本はいつも『仲直りしてくれ』って言っていたんですよ。内心,『仲良くなれるはずない』と思いながらね。
 実際,2016年から2024年まで一度も板垣とは会っていませんでしたから。アイツが辞める2〜3年前から,ほとんど会ってなかったし」

 そんな兼松氏は,板垣氏がこの世を去ってしまったことを知ったとき,何を思ったのだろうか。

 「岡本が『そろそろいいんじゃないですか』とセッティングしてくれたんで,8年ぶりに『じゃあ会おうか』と。そのときの板垣はかなり弱っていて『元気か』とか『酒やめろよ』とか,そんな話をしたんですけれども,そのあとすぐ入院したみたいで。

 アイツ,SNSで俺のこと全部ブロックするんですよ。だから亡くなった日にアイツがFacebookに出したメッセージのこと,俺は全然知らなくて。皆が俺に『どういうことですか?』って聞いてくるんだけど,『え,何のこと?』って。
 (この世を去ったのは)ちょっと早かったかな。能力が高かったし,世界的な知名度もあったので,もったいないかなとも思うけど,でも自分の生きたいように生きたと思いますよ。まあ,俺もそっちに行ってからか,来世で一緒に酒飲んで麻雀やろう!!」

兼松氏が開催したライブでのツーショット
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