それぞれに経緯と利害関係を抱えた多くの国で,第二次大戦を戦うストラテジー「ハーツ オブ アイアンII」で,「そんな活躍の仕方があったとは」というプレイを追求する本連載,今回はここ,フィンランドからお届けします。
フィンランドの運命を決定的に左右するファクターは「ロシアに近すぎる」ことです。ナポレオン戦争期のティルジット条約でスウェーデンからロシアに引き渡され,とくに20世紀を迎えてから度重なる「ロシア化」の圧迫を受けてきたフィンランドは,独立後も常にロシア/ソビエトの圧力を意識し,ときに反発しつつ国を維持してきました。
スカンジナビア半島の西側,バルト海の長い海岸線を持つこの国は,レニングラード近郊をはじめとするヨーロッパロシア北西部の主要地域に接しています。必然的に,守るロシアにとっては前進領土もしくは哨兵,攻めるドイツにはアクセスルートもしくは尖兵として,強く意識されることになります。
ポーランド戦が終了したあとの1939年秋,ソビエトはフィンランドに,バルト三国と同様の相互援助条約を持ちかけますが,これは拒絶されます。その代わりとしてスターリンは,ソビエト防衛にぜひとも必要な拠点を確保すべく,領土交換要求を(珍しいことに)ねばり強く行いますが,これもフィンランド側の容れるところとなりません。その背景には,フィンランドのソビエトに対する根強い警戒感があったのです。
業を煮やしたソビエト政府は交渉を打ち切り,12月にはフィンランド侵攻に踏み切って「冬戦争」が始まります。フィンランド軍9個師団は,ソビエト軍26〜28個師団を向こうに回して善戦し,欧米世論もソビエト非難に回ります。それでも衆寡敵せず,翌年(1940年)3月までにはソビエト軍が予定の地域を占領して講和に至りますが,この一件でフィンランドはドイツ側につきます。
1941年6月に独ソ戦が始まると,フィンランドはドイツと呼応してソビエトに宣戦,カレリア地峡など冬戦争で奪われた地域とその外郭領域までを占領します。ドイツに攻められるソビエトには,これを妨げる手立てがありません。
ドイツはフィンランドに,さらに積極的な協力を求めますが,自国の戦争とドイツの戦争は別個のものという姿勢を貫くフィンランド側が,これに応ずることはありませんでした。以降フィンランド軍は,占領地域で持久体制に入ります。
そして,スターリングラード戦におけるドイツの劣勢を見てとったフィンランド政府は,1943年3月に早くも戦線離脱に向けて動き出します。カレリア地峡奪回作戦に動き出したソビエトからの,いささか厳しい(賠償金を含む)講和条件提示,ドイツによる,単独講和阻止の圧力をときにトリッキーな外交で乗り切りつつ,1944年8月には講和のテーブルに着いたのです。
戦後フィンランドの置かれた立場は,よく“Red more than Dead”(死ぬよりは赤化したほうがまし)という言葉で表現されます。決して共産主義に同調しているわけではないものの,ソビエトが許容する政権構成と政策を選ぶことは,フィンランドが独立を守るための苦肉の策でした。また,逆にソビエトが資本主義陣営の小国を「戦後フィンランドのような立場に追い込む」ことを指す“finlandization”(フィンランド化)は,国際政治における概念用語として,広く知られています。
ここでクエスチョンです。第二次世界大戦の主軸から少々離れた北欧のフィンランドにとって,そもそも戦争にどこまでコミットするかには,ある程度選択の余地がありました。自国の影響力をさまざまな局面,さまざまな方向で行使してみたとき,フィンランドにはどんな可能性があったでしょうか。