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印刷2009/03/23 12:28

連載

徳岡正肇のこれをやるしかない! / 第6回:「S.T.A.L.K.E.R.」でZONEをさまよってみるしかない

徳岡正肇のこれをやるしかない!
ウクライナの現代史を描く重いテーマのFPSをあらためて今,分析 第6回 「S.T.A.L.K.E.R.」でZONEをさまよってみるしかない

 

 不定期連載「徳岡正肇の これをやるしかない!」。第6回のテーマはウクライナのゲームデベロッパ,GSC Game Worldが2007年にリリースした「S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl」である。
 チェルノブイリ原発事故と,それに続く謎の大爆発によって突然出現した異世界「ZONE」を舞台に,食い詰め者や故郷を追われた者達がその日の糧を得るためにモンスターやほかの勢力と無慈悲に戦うオープンエンドのFPSである本作。一見すると「モンスターと薄汚れた男達しか出てこないゲーム」のように思えるこの作品には,ライターの徳岡氏をして唸らせる,さまざまな暗喩や寓意が含まれていたのである。
 発売から約2年を経た今,真のエンディングを含むストーリーを概観することで,ロシア/東欧現代史をからめた本作の意味合いを探っていこう。
 
※今回の記事には多数のネタバレが書かれていますので,「ネタバレかんべん」という方はご注意ください

 

 

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 「S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl」(以下,SSoC)は,2007年に発売された数多くのPCゲームのなかでも,さまざまな点において際立った作品だった。思えば,2007年は「Portal」「Half Life2」「Team Fortress2」「Bioshock」,そして「Call of Duty4」と,FPSだけでも名作/傑作が粒ぞろいの年だったが,SSoCはこの豪華きわまるラインアップにあって埋没することなく,世界的な評価を受けたのである。
 TF2やCoD4という,現在においてもなお世界中でプレイされているベスト&ロングセラーや,そのスタイルが「Mirror's Edge」へと継承された「Portal」と比べたとき,SSoCの魅力はどこにあったのだろうか? 十分に美しくはあるが突出しているとは言い難いグラフィックス,事実上未実装のまま終わった目玉商品であるはずの「Artificial Life」(A-Life),そして良好とはいえないゲームバランス(とくに序盤)を誇るこの作品は,世界のコアゲーマーの何を刺激したのだろうか。

 

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 SSoCの面白さは,この作品が通常のPCゲームとはまったく異なるレイヤーにおいて,高度な完成度を有するところにあると個人的に思う。簡単にいえば,「普通のゲーム」ではないのだ。
 SSoCに隠された意図や主張は,一部は明示的に語られるものの,そのほとんどは通奏低音としてゲームの中にブレンドされている。だからプレイヤーは,ゲームを遊んでいるだけなのに,言葉にし難いプレッシャーや,無言の語りかけを感じざるを得ない。
 だが,残念なことに,筆者が調べる限りにおいて,SSoCが訴えようとしたものを深く掘り下げた批評や紹介は存在していないように思える。これはゲーム批評というものの性格上やむを得ない部分であって,SSoCの物語を分析しようとすれば,どうしたって大量のネタバレを前提とせざるを得ないのだ。
 発売直後のゲームを,トゥルーエンディングまでのすべてを踏まえて説明するのは,やりすぎだ。一方,さすがにもうネタバレしても大丈夫だろうという時期になってしまえば,「そんな昔のゲームをいまさら取り上げても」といわれてしまう。

 

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 それでも……。
 SSoCには,語り尽くされていない物語がいくつも眠っており,それらはゲームをもっと楽しみたいと思っている人や,面白いゲームを作りたいと思っている人にとって,有益な情報であると考える。User Generated Contentsが日本でも浸透しつつある昨今,プレイヤーにとっての最終的な到達点がクリエーションであることは珍しくない。そして,「何かを作りたい/作らねばならない」という衝動に対して,SSoCは示唆に富んだ見解を与えてくれるはずだ。

 続編である「S.T.A.L.K.E.R.: ClearSky」の完全日本語版が発売されたこの段階で,もう一度SSoCとは何であったのかを分析してみたい。長丁場になるが,お付き合いいただければ幸いだ。

 

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 前置きはこれくらいにして,SSoCの話に入ろう。
 SSoCを簡単にまとめれば,「チェルノブイリの周辺跡地を自由に移動して物語を進めていく,RPGタイプのFPS」ということになるだろう。ストーリーも要約すれば簡単で,「記憶を失ってチェルノブイリ周辺に投げ出された主人公が,七転八倒してこの世界の謎に立ち向っていく」に尽きる。七転八倒であって七転び八起きではないあたりを補足しておけば,全体の難度を表現したことになるだろう。

 SSoCをプレイしたことがない,あるいはまだクリアしていないけれど本稿を読み進めたいという読者のために,ここにストーリー全体を紹介しよう。ここでもう一度繰り返すが,猛烈にネタバレしていることに注意していただきたい。

 

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 物語は,ある嵐の夜,チェルノブイリNPP(Nuclear Power Plant=原子力発電所)から外部へと向かう,死体を満載にしたトラック,通称デストラックが事故を起こし,主人公が外に投げ出されることから始まる。
 主人公は奇跡的に一命を取りとめていたが,記憶が失われており,腕には“STALKER”の刺青がされていた。唯一の手がかりである個人用PDAには「Kill Strelok」(Strelokを殺せ)という一文が残されるのみ。
 彼は地元のブローカーに助けられ,Marked Oneという仮の名前をもらう。そして,

  • ここがチェルノブイリ周辺地域である
  • チェルノブイリNPPを中心とした直系30kmでは超常的な異変が起きていて,ZONEと呼ばれる
  • 放射能汚染とZONE特有の超自然的現象の影響でZONE内部にはミュータントなどが徘徊しており,非常に危険である
  • ZONEの中心にはMonolithという物体があり,あらゆる願いをかなえてくれる
  • ZONEとMonolithの謎をめぐって複数の組織が軍事衝突を起こしている
  • STALKERというのは,ZONEおよびその周辺で見つかる超自然的な物体“Artifact”を収拾したり,ZONEに展開する各種の組織からの仕事を請け負ったりして稼いでいる,いわば危険な廃品回収業者兼なんでも屋である

といったことを知る。

 

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 主人公がブローカーからの仕事をこなしていくうち,次第にZONEの真実と,自分の過去に近づいていく。彼はロシア軍の基地から機密書類を盗み出し,人間の脳を壊す怪電波を出す巨大装置を破壊し,二つの秘密研究所でZONEの謎を探り,ゴーストタウンと化したプリピャチの街を駆け抜け,ついにMonolithの鎮座するチェルノブイリNPPへと到達する(ちなみに怪電波発生装置というのは,開発チームによれば,事故当時「そういうものがチェルノブイリにあって,それが暴走したのだ」という噂が立ったことに拠るらしい)。

 そして主人公は,失われた記憶も回復させる。
 Strelokとは,彼自身だった(……という事実を思い出すことに失敗すると,Monolithにいろんなお願いをするエンディングになる)。彼はかつて,今と同じような旅路を仲間と共に歩み,チェルノブイリNPPの中で謎の扉を見つけていた。
 さらには,MonolithはSTALKER達をチェルノブイリNPPに呼び寄せる罠であり,Monolithに何かを願ったところで破滅以外は与えられないことも掴んでいた。
 何機もの軍用ヘリと,レールガンで武装したスナイパー達との死闘をくぐり抜け,再びチェルノブイリNPPの内部に到達した主人公は,かつてたどり着いた謎の扉へ至る。以前はどうしても開かなかったその扉は,仲間――すでに死んでいる――が作った暗号解読器によって難なく開く。

 

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 扉の向こうで,Strelokは謎の人物と出会う。彼はソビエト時代の科学者が創造に成功した,C-Consciousnessという超意識だった。科学者達はチェルノブイリNPPという隔離された環境に本拠地をおき,C-Consciousnessの力で人間から残虐性や攻撃性といった意識を奪い去ろうとしたが,実験は失敗。その結果としてZONEが発生してしまう。
 C-Consciousnessは,拡大しようとするZONEの抑制に躍起になるが,一方でZONEは多くの人間を惹きつけた。彼らはそうした人間達を真実から遠ざけるため,あちこちに洗脳装置を設置して実働部隊を確保したり,「Monolithはあらゆる願いをかなえる」という偽の情報を使って探索者達を罠にかけようとした。

 Strelokは科学者達=C-Consciousnessから仲間になるよう要請されるが,これを拒否(拒否しなくてもいいが,別のエンディングになる)。C-Consciousnessを形成する七人の科学者が眠る秘密の部屋へと到達し,ポッドの中の彼らを射殺する。
 C-Consciousnessが失われたことで,ZONEもまた消滅した。チェルノブイリ周辺には豊かな自然が戻り,ここにStrelokの旅は終わりを告げた。

 

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 ――これを見ると,舞台がチェルノブイリであることと,FPSでありながらRPG的なゲーム展開を用意したことがちょっとしたサプライズであっても,それ以外の点においては何も特別なことはないようにも思える。ストーリーは凝っているしドラマチックだが,同年に発売されたCoD4と比べ,必ずしも突出しているわけでもない。
 実際,この作品の本当のサプライズとなるはずだったのは「Artifical Life」(以下,A-Life。登場するNPCやミュータントが自分の意思で判断して行動し,勝手に物語を進めていくというギミック)であった。しかしA-Lifeは開発の問題から事実上の未完成に終わり,ところどころでいわゆる「スクリプト湧き」さえ存在する。

 このA-Lifeの問題は,筆者が調査を進めていくと,意外な角度からの知見をもたらしてくれる。だがまずは,「ちょっとしたサプライズ」の部分から吟味していくことにしよう。

 

 

ウクライナの栄光と自由は滅びず(ウクライナ国歌)

 

 最初に注意すべきは,SSoCの舞台はソビエトではなく,ウクライナであるという点だ。ゲーム内でもソビエト連邦は崩壊しており,ウクライナはすでに独立国家となっている。
 そしてこのことは,ゲームが始まってほとんど最初(厳密には二番目)に与えられるミッションにおいて重要な意味を持ってくる。

 

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 そもそも,ウクライナとロシアはあまり仲が良くなかった。ウクライナは小ロシア(文明の中心であるギリシャにより近いロシア)と呼ばれていた地域にあり,ロシアは大ロシア=田舎のロシアとされていた。しかし幾多の民族による征服の歴史のなかで,最終的に意識を統一できなかった小ロシアは大ロシア=ソビエトに併合され,ウクライナ(=田舎)という名を背負うことになった。
 ソビエトに組み込まれることで,ウクライナの受難は確定的なものとなる。世界でも有数の穀倉地帯でありながら,ソビエト政府による収奪の場となり,飢餓によって400万〜1000万人が死んだといわれる。大祖国戦争(第二次世界大戦)におけるソビエト全体での死者数が2000万人ということから,この数がいかに膨大なものであるか分かっていただけると思う。
 少なくともウクライナ人がロシア人を良く思う理由はほとんどない。

 これを踏まえたとき,SSoCにおける最初の本格的なミッションが「ロシア軍から重要な書類を盗み出す」であり,それを「地元(高い確率でウクライナ人)のブローカー」から受けるというのが刺激的な導入であると分かってくる。物語はウクライナ人vs.ロシア人という構図――センセーショナルな見出しをつけるとすれば「ウクライナ民族主義者によるテロ」で始まるのだ。

 

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 実のところ,筆者はSSoCというゲームを「緻密に再現されたチェルノブイリ跡地で殺し合いをするゲーム」程度にしか考えていなかった。それだけで十分に刺激的だったからだ。しかしゲームを始めて,本格的にシナリオが動き始めた瞬間,この作品に即座に心を奪われることになった。なんともはや,このご時世に「テロリスト」が主人公とは! チェルノブイリが舞台ということもあって,SSoCがある種のメッセージを持っているのは確信していたが,ここまで挑発的な作品だとは思わなかったのだ。

 だがこれは,本当の物語の,序章に過ぎなかった。

 

 

われ死すとも,降伏せず。さらば,祖国よ。

 

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 物語を進めるにつれて,このウクライナ人vs.ロシア人という構図は,少しずつ崩れていく。
 とりわけ筆者の印象に強く残ったのは,ロシアの元警官という経歴をもったNPCだ。プレイヤーと彼は共同戦線を張って戦うことになるのだが,その際に彼の身の上話が聞ける。
 彼はモスクワで警察官をしていたが,上層部のあまりの腐敗に耐えかね,上司を撃ち殺して逃げてきたというのだ。お尋ね者が隠れる場所として,ZONEの周辺はもってこいだったというわけだ。この段階で,ロシア人がすなわち悪というステレオタイプは真っ向から否定される。

 ちなみに,ロシアにおいて警官という職業はあまりいい印象を持たれていないらしい。
 例えば交通整理をする警官が,何の罪もないドライバーを止め,スピード違反で逮捕すると宣言するのは日常茶飯事という話を聞くことがある。この場合,ドライバーがやるべきことは適切なルーブルを警官に支払うことで,自己弁護することではない。したがって,社会的正義を信じる心を持って警官になった普通の男が,腐敗した上司を撃ち殺してしまうのは,さほど不思議ではないのかもしれない。
 だが,そうした悪徳警官がいるとして,それを一方的に責めるのもまた単純すぎる。崩壊後のロシアで起こった経済的な混乱は我々の想像を絶しており,ほとんどすべてのロシア人が日々の食事にさえこと欠き,年金生活者は完全に見捨てられた。誰もが,食べるための金を必要としていたのだ。

 

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 ZONEの周辺は,「人の住むにあたわざる土地」である。ロシア人であろうが,ウクライナ人であろうが,放射線はえり好みをしない。この極限状態において,民族間の闘争は次第に意味を失っていく。
 そしてプレイヤーは,「憎きロシア軍」もまた,彼らなりに貧乏くじを引いた人々であることに気がつく。彼らのなかには精鋭と呼ぶべき部隊もいるが,本当に重要な部隊であれば,ここまで激しくも無意味な消耗が予想される土地に送り込まれたりはしない。それでもなお送り込まれたというなら,話はもっと悪いのだが。
 確かに彼らは敵で,プレイヤーを殺そうとする。だが彼らは,原発跡地を無意味に徘徊するゾンビではなく,チェルノブイリという限界の土地にあって,互いに殺しあうことを強いられた友人に近い。
 そして,仮にこの地獄から抜け出たとしても,その外には貧困と混沌が渦巻く別種の地獄が待っている。プレイヤー達は,目の前に広がる恐怖と荒廃から逃れることはできない。放射能やミュータントは貧困や内戦,戦争に姿を変えて,どこまでも追ってきて,そのなかで我々は意味もなく,しかし必然性を持って殺しあう。それがあの時代のロシアであり,ウクライナであり――大局的に見れば世界である。

 

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 ちなみに章の見出しに引用したのは,第二次世界大戦の開始直後にドイツ軍に包囲され,約1か月の抗戦ののち4000人の守備隊がほぼ全滅した,ブレスト要塞の壁に刻まれていた言葉である。赤軍(ソ連軍)兵士の忠誠の象徴として全ソビエトに知れわたったこの言葉は,政府の演出によって「無名の戦士」によるものとされていたが,実際には守備隊の一人であるチメレン・ジナトフ氏の手によるものだった。
 ジナトフ氏は,ブレストの英雄であるにも関わらず,政府が用意した特権のすべてを拒み(「特権のために戦ったのではない」と語っている),そしてソビエト崩壊後に訪れた極度の生活苦のなかで自殺した。
 ブレストから生還し,冷戦を生き延びた英雄でさえ,その次の地獄を生き延びることはできなかったのだ。

 

 

悲観主義者と楽観主義者の違いは何か?

 

 悲観主義者は,最悪の状況を前にして「こんな酷いことがこの世にあるか」と嘆くが,楽観主義者は「いやいや,まだまだ悪くなる余地があるよ」という。ソビエト時代の有名なアネクドート(小話)である。

 

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 SSoCは,グラフィックスも特有の重みを持っている。
 ポイントとなるのは,SSoCはエリアを次々に「クリア」していくゲームではなく,広大なマップを自由に探索するゲームであることだ。ここにおいて自分が撃ち殺した敵の死体がマップ上に残るのは,「3D縦スクロール型シューティング」型のFPSとはまったく違う印象を与える。死体は,ただ単に敵がいた場所,生き残っているはずの敵の数をカウントするためのオブジェクトではなく,風景の一部になる。
 この効果は想像以上に大きい。

 我々は,緻密に再現されたチェルノブイリ近郊の風景をディスプレイの中に見て,そのあまりの悲惨さと陰惨さに胸を打たれる。その風景は,自分がいる場所がこの地球上でほぼ最低の場所だということを訴えかけるが,激しい銃撃戦のあと,一面に横たわる死体の群れは,それが甘い印象に過ぎなかったことを教えてくれる。人間は,「もうこれ以上ひどい状況はない」と確信できる状況ですら,もっと悪くすることができる。
 人間の想像力はとても力強いものだが,その限界を踏み越える状況を作り出すのもまた人間なのだ。

 

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 話はやや横道に逸れるが,マレーシアで非常にアグレッシブかつアングラ的な舞台活動を行う劇作家(兼演出家/俳優)ナム・ロン氏が手がけた「WIP」(Work in Progress)という演劇は,この「想像力の限界」を具体的に描いた作品だった(この作品は日本でも上映されている)。
 自分のブログにちょっとばかりイスラム原理主義的とも取れる日記を書いた若者が,秘密警察に捕えられ,あの手この手の拷問を受け,ついには自分が原理主義者であることを自白するまでを描くこの作品で,尋問官は観客に対し「こういった取調べは,どこまでも続く。何が行われるかは,想像力に依存する」と語る。
 観客は,目の前で演じられる拷問を見て,現実世界で起こっているであろう,もっと酷い何かを想像する。だがその想像は,常に現実を下回る。

 

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 想像力を越えた世界を描ききること,それがSSoCのグラフィックスにおいて最も特筆すべき点だ。これは言葉にするよりもずっと難しい。想像力を越えた世界を描けば,普通はそんな世界にはリアリティなど感じられない。しかしSSoCは,プレイヤーに対し,プレイヤーの想像力を越えるリアリティを提示している。
 この事実と,なぜこれが可能だったのかという疑問は,次の段階の議論へ我々を導く。

 

 

「我々は,自分達が何を作っているのか理解した」

 

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 SSoCについて必ず語られるのは,その開発時間の長さだ。6年以上にわたる開発期間は,あまり普通ではない。
 今まで,その理由はA-Lifeにあるといわれてきた。彼らが最初構想した,すべてのNPCが自律的に行動し,場合によっては勝手にゲームを進めてしまうというアイデアは,アイデアとしては面白かったものの,それを実現するにはPCの処理能力が足りなかった。
 100か国以上の国家が全世界を舞台として戦争を繰り広げる「ハーツ・オブ・アイアンII」は,あれほどストイックなグラフィックスを持ちながら,やはり戦争末期になるとPCが唸りをあげるほど重くなるのだ。1000人以上のNPCが勝手気ままに世界のあちこちを動き回るゲームがどれほどPCに負荷をかけるか,想像に難くない。
 だが,これはどうも表面的な理由であり,真相は別にあるようだ。そのことが,海外の情報サイトに点在する開発チームを取材したインタビュー映像や記事に残っていた。

 

 簡単にいうと,開発チームはゲームの方向性を見失っていた。A-Lifeというアイデアの面白さにとらわれ,それを実現するためにゲームを作ろうとした結果,チェルノブイリはいつしかそのゲームの背景になっていったという。
 だがあるとき,彼らは気づいた。自分達は,A-Lifeを搭載したゲームを作りたかったのではなく,チェルノブイリを舞台にしたゲームを作らねばならなかったのだ。初期消火にかけつけた消防士が放射能汚染でバタバタと倒れ,その消防士をモスクワの避難先で介抱した妻や看護士達が二次被曝によって倒れる,そんな地上の地獄を舞台として。

 

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 彼らはここで根本的にゲームを見直したという。チェルノブイリやプリピャチの取材を繰り返し,何千枚という写真や何十時間というビデオテープ,そして当時の関係者へのインタビュー――そのなかには当時のチェルノブイリの責任者も含まれる――を積み重ね,「チェルノブイリとは何か?」を徹底して調べていった。
 かくして,SSoCが持つ独特のリアリティが生まれたのだ。SSoCがプレイヤーの想像力を越えるリアリティを描き出し得たのは,チェルノブイリという人間の想像力を超越した場所を実際に見て,感じ,それにとことんつきあったスタッフ達が作ったからだといっても,さほど間違いはないだろう。

 

 この現地取材や実体験という単純かつコストのかかる手法は,ゲームにとって想像以上に重要な効果をもたらすようだ。
 PCゲームの世界でいえば,例えばジェネラルサポートのゲームデザイナーである阿部隆史氏は,「太平洋戦記」を作るにあたって,日本軍が進出した島嶼部への旅行に何度も行ったという。最近ではモバイル向けのゲーム,「勇者死す」を作った桝田省治氏が「俺の屍を越えていけ」を作る契機となった体験として,自分の子供が生まれた瞬間を挙げている。
 アナログゲームでもこれと同じことは多くあり,歴史性を持ったストラテジーゲームの第一号である「ゲティスバーグ」(つまりこれが「信長の野望」を生みもすれば,「ヨーロッパ・ユニバーサリス」の揺籃ともなった)を出版したアバロンヒルは,そのゲティスバーグからほど遠からぬ場所にあった。

 

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 もっとも,体験があればいいのかといえば,それもまた罠の一つだ。
 ガンダムの父と呼ばれる富野由悠季氏は,最近の公演で「11〜12歳ごろ好きだったものにこだわれ」と語っている。本当に没頭したものではない,なんとなく体験したものではダメだということだ。あるいはアナログのストラテジーゲームに長く携わってきた知人は,「デザイナーが現地に行ったというだけで箔をつけようとする,ダメなゲームが多すぎる」と嘆いている。
 事実,「Portal」のデザインチームは,SSoCと正反対の手法を高度に理論だてて実践することによって,傑作を生み出すことに成功した。体験があればそれでいいわけでもない。

 ただ単に描画が緻密なだけでは,そこにリアリティはない。まして,そこで想像を絶する事態が発生すれば,そのハリボテのリアリティは簡単にコメディへ堕する。そういう例は悲しいくらい多い。
 SSoCは,頭の中でゲームを創りあげることをやめて,愚直なまでに外にあるもの――世界地図レベルでいえば,開発チームのわりと近所――にこだわった。その結果,あのリアリティが出現した。

 けれどそこには,もう一段階,別のロジックが介在する。

 

 

「どこへ行けというのか。人間が汚した大地だろう」

 

 SSoCの開発チームが残した言動のうち,奇妙に思えるものが一つある。ストルガツキー兄弟の「ストーカー(路傍のピクニック)」に影響を受けたと認めながら,その映画版であり,世界的な巨匠であるタルコフスキーの「ストーカー」とは,関係がないと言い張っている点だ。
 もちろん,ここには旧ソビエト地域における未熟な著作権管理問題などが微妙に見え隠れするのだが,それだけで済ますことはできないようにも思える。タルコフスキーについてはとくにだ。

 

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 チェルノブイリを扱った作品は多いが,そのなかに日本人の写真家,本橋成一氏が撮った「ナージャの村」という写真集がある。ベラルーシ共和国ゴメリ州ドゥヂチ村という,もはや地図には書かれていない村で生活する人々を撮ったものだ。その村が地図にないのは,放射能汚染によって「人間が住むのに適さない」とされ,政府から移住を勧告されているためである。
 冒頭の言葉は,ベトカ地区のパーブジェ村で同じように移住を拒んで生活を続けていたアルカジイ・ナボーキン氏が,本橋氏に「なぜ安全な土地に移住しないのか」と問われての返答である。

 先の段でも述べたように,SSoCが描く現実に逃げ場はない。逃げることに意味がない。北の荒れる海で働く漁師達は「板子一枚下は地獄」と言う。SSoCは,その地獄がどこまでも広がっていて,我々は板の上に危なっかしくも命がけで立っているに過ぎないという現実を,これでもかと突きつける。
 ここにおいて,タルコフスキー作品との関係を否定するスタッフの言葉は,違う重みを帯びてくるだろう。表現をめぐってソビエト当局と激しい戦いを繰り返し,ゴルバチョフの登場によって事実上の勝利を収めたにも関わらず亡命した映画界の巨匠に対し,彼らはウクライナに踏みとどまった。チェルノブイリに向き合うことによってのみ,自分達の作品が完成しうるという現実に正面きって挑んだ彼らが,タルコフスキー映画に対して含みを持たせた言葉を残したとしても,さほど不思議は感じない。

 

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 ただし,現在のロシアで,SSoCのような表現活動を続けていくことには,一定の危険がつきまとう。
 例えば,チェチェン戦争を取材し続け,『チェチェン やめられない戦争』『プーチニズム 報道されないロシアの現実』などを記したアンナ・ポリトコフスカヤ女史は,何者かに毒殺されかけた後,モスクワにある自宅のアパートで,当局の発表によれば「チェチェン人テロリストによって射殺された」。
 チェルノブイリつながりで言えば,チェルノブイリ被災者のインタビュー集「チェルノブイリの祈り」を編纂し,また,アフガン戦争に従軍した兵士の言葉を集めた「アフガン帰還兵の証言 封印された真実」などを記したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ女史は,本国であるベラルーシでの活動停止を余儀なくされ,現在ではドイツに活動の拠点を置いている。
 もちろん,アレクサンドル・リトビネンコ氏の暗殺未遂を例に引くまでもなく,本気になられたら,どこに行ってもほとんど意味はないだろう。だが,毒殺されかけようとも,あるいは故郷を捨ててでも,書かねばならないことを書く人達はいる。

 

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 結局,問いは一つだ。自分が背負うべき荷物を,引き受けるのか,引き受けないのか。
 ベラルーシの老人は,見ず知らずのロシア人がしでかした地球規模の不始末の結果を,同じ人間が汚した大地として引き受け,故郷に踏みとどまった。ポリトコフスカヤ女史はチェチェンの真実を伝える仕事を背負った。アレクシエーヴィチ女史は歴史の渦に消えようとしていた「ソビエト人」の声を次の世代に引き継ぐ仕事を背負い,ドイツへの移住を強いられた。

 SSoCにおいては,主人公は自分が背負った荷物を背に,最後まで歩き続ける。そうやって歩くことが彼にとって必要なことなのだ。
 そしてこのことは,ベラルーシの老人を破壊された故郷に押しとどめ,ロシアのジャーナリスト達に危険を伴う取材を行わせ,あるいは開発チームが6年という歳月をかけてもSSoCを完成させたメンタリティと,同じ深奥に根ざしている。

 

 

神はその人が耐え得る重荷しか背負わせない

 

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 東京バレエ団のプリンシパルに,斎藤友佳理というバレリーナがいる。ロシア人の配偶者を持ち,ロシアでの愛称はユカリューシャ。彼女は公演中の事故で大怪我を負い再起不能と診断されるが,優れた治療と懸命のリハビリによって見事に奇跡のカムバックを遂げた。
 斎藤友佳理女史と結婚したニコライ・フョードロフ氏の母は,このとき多くの言葉を残しているが,それはヨーロッパ・ロシアに広まっているロシア正教の信仰観を非常によく表現したものだ。なかでも印象深いのは,除雪車に巻き込まれて両足を切断したフョードロフ氏の弟を指して言った言葉だ。「神は,その人が耐えられる重荷しか背負わせない。あの子はとても強いから,神はそれだけ重い荷を背負わせられた」。

 強靱な者が,その強靱さゆえにより大きな艱難辛苦を神に与えられるという発想は,良くも悪くもスラブ的であるし,スラブという言葉が奴隷(Slave)の語源であるという話しにも符合する。
 そしてまた,この奴隷という言葉は,崩壊後のソビエトにおいて一つのキーワードでもあった。自由主義と資本主義に目覚めた若者達は,ソビエトに仕えた両親や祖父母達を「奴隷根性が抜けない」とあざけり,富を求めて飛び立っていった。彼らは自分達がスラブであることを,全力で拒もうとさえする――なかには「老人達があの戦争に勝たなかったら,俺達は今頃ババリアビールを呑んでいられた」という,実に“スラビック”な罵倒をする若者もいたらしい。

 

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 けれど,フョードロフ氏の母が語るように,正教会の教えは消えなかった。宗教は阿片であると否定した共産主義国家ソビエトの,70年間の支配を過ぎてなお,かの土地と社会に染み付いた信仰が失われることはなかったのだ。
 事実,その70年を生き,内戦と大祖国戦争という二つの大戦を戦った筋金入りの老共産党員であったヴァシーリィ・ペトローヴィチ氏は,こう語る。「いまでは怪しくなったとはいえ,私はやはり無神論者だ。私が夢みていたのは楽園,地上の天国だった。しかし,もし神が存在していたら,神は私を許してくださるだろう」。
 無神論者であることと,神の救済を信じることは,彼の内側でさほど大きな矛盾を生まない。それくらい,彼は共産主義者であると同時に正教徒なのだ。

 そもそもロシア正教会は,その成立において政治的な色合いが濃かったが,同時に禁欲的で厳格な修道院運動としての側面も持つ。14〜15世紀頃に発達したこの運動は,後のソビエト時代において政治犯の収容所となるような荒地を開墾するという,文字どおり苦行そのものであった。
 この「修道」という考え方は,ロシア正教にとって中心的教義の一つとなる。ロシア正教においては,キリストの復活とそれに伴う人類全体の救済は保証されるが,個々の救済は可能性であるとしてしか保証されない。個人の救済は,その個人が信仰をもって教えを実践し,それによって神の恩恵を得て初めて実践されるのだ。
 理不尽としか言えない大自然の猛威と,理不尽を越えるロシアの歴史のなかで育まれてきたロシア正教は,かようにして忍耐と克己,そして労働という行いに大きな価値を与えてきた。

 

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 SSoCにおいて,主人公はひたすらに前に進む。期せずして,徒歩以外を選ぶことはできない。主人公が乗るヘリはなく,車もない。失われた記憶という重荷を背負いつつ,ただ前に進む以外に選択はない。強靱であるからこそ,その前途には次々に困難が出現し,それをかきわけ,主人公は前に進む。宿命の地,チェルノブイリNPPへ。
 エンディングにおいて,彼は自分が歩んできた道のりを裁かれる。あるいはそれは,祈りにも似た何かだったのかもしれないし,若者達と同様,冷えたババリアビールとメルセデスを望む心だったのかもしれない。だが,最後に,審判は下る。

 そして,SSoCの物語は完結する。

 

 

革命は銃口から生まれる いや,まだ物語は終わらない。

 

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 真のエンディングにおいて,我々はその「裁き」が人間の手による罠であることを知る。ここで語られるのは,そのものズバリのかつての共産党(あるいは理想と善意に支えられた支配体制)への批判だ。事件の黒幕であった人々の目的は「人間からネガティブな性向を取り払う」であり,この発想は往年のソビエト連邦で語られた,より幸福で完成された人民を生み出すという思想に酷似している。
 また,主人公がこの長い物語の渦中に落とされることになった理由,すなわち「自分自身を殺せという命令が与えられた」という不可解な事態が,彼らのミスに起因したという見解(なにしろ黒幕による「公式見解」なので,真相は分からない)は,肥大化した官僚システムが生むあり得ないミス――まさにチェルノブイリ事故のような――を想起させるものだ。

 つまり,真のエンディングにおける主張は,ソビエトという国家はきわめてロシア正教的なメンタリティを利用して「ソビエト人」を管理していた国家に過ぎない,というものである。この主張は,前述したように,ソビエト崩壊後の旧ソビエト圏において「奴隷」という言葉が旧世代を語るキーワードとなったことにも象徴されている。
 しかし考えてみれば,ロシア正教を精神的基盤として複数民族を抑圧的に支配するというのは,帝政ロシアの手法でもある。少なくとも,トルストイは帝政ロシアをそのように批判し,神を信じつつも,形骸化したロシア正教会に絶望していた。であるなら,SSoCにおける旧ソビエト批判をまとめれば,旧ソビエトとは帝政ロシアの看板を架け替えただけだ,という批判になるだろうし,この批判は,現在と未来にもつながる。

 

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 最終的に,主人公は歴史的遺物と化していた事件の黒幕達を,AKの銃撃で(それまでどんな武器を持っていようが,必ずAK)葬る。世界最大の生産数を誇る武器にして,あらゆる革命と動乱に用いられるこの突撃銃は,SSoCにおいても最後の革命を成し遂げる相棒になる。

 すべての旅を終えた主人公の手には何一つ残らなかったが,チェルノブイリNPPを中心とした異常は終焉を迎え,緑なす草原と動物達が戻ってくる。美しいウクライナの大地は,取り戻された。
 しかし現実を見れば,高濃度放射能汚染によって立ち入り禁止地区に認定されているチェルノブイリNPP周辺は,事故から20年の時を経て野生動物が闊歩する土地になっている。
 そして,SSoCにおいても,チェルノブイリ事故とこの物語の黒幕とは無関係であることが語られているし,物語の主軸となったこの超常現象が「あらゆる望みを叶える」とされたのはプロパガンダであったことも明らかにされる。

 要するに,自然は帰ってきたにせよ,おそらくそこは放射能に汚染されたままの土地なのだ。だがそれでも,人々はそこで生きるだろう。それ以外に,どこに行けというのか?

 

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 ヨーロッパのクラシック音楽が,その伝統として末尾をアーメンの和音で終わらせ,トーマス・マンが彼の短編の中で,息子を戦争で失った老夫婦に麦を撒かせたように,SSoCもまた神への帰依と祈りで物語が閉じられる。

 

 

Dirge For The Planet

 

 最後に,SSoCのテーマソングである「Dirge For The Planet」にも言及しておこう。
 この曲はテーマソングでありながら,ゲーム中に聴くことはできず,オープニングにもエンディングにも登場しない。ただ,そのメロディが焚き火を囲むSTALKER達のギターによって奏でられ,また一部はバーなどに置かれたラジオごしに聞こえてくる。テーマソングの使い方としては,実に贅沢きわまりない。フルで聞きたければ,公式HPからダウンロードできる音楽ファイルを開くしかない(それ以外の場所でも聞けることは聞けるが)。

 

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 この歌は,「惑星のための葬送曲」とでも訳すべきタイトルが示すとおり,滅びていく地球に捧げる歌という体裁をとっている。だがいくつか,何を意図しているのか分かりにくい部分がある。
 最も分かりにくいのは,おそらく導入部で,これは多くの訳者が翻訳に困っているところだ。「素晴らしい水晶球」「未来が見える」といったフレーズは,具体的に荒廃した風景を歌い上げる以降のパートから明らかに浮いているし,シチュエーションも想像しにくい。妥当なところで,ジプシーの占い小屋で占ってもらっている(ロシアにはそういう習慣がある)ということになるだろうが,それではあまりに本編とズレる。

 この部分を埋めるのが,『チェルノブイリの祈り 未来の物語』という本である。この本のなかで筆者は,自分自身へのインタビューを残している。彼女はベラルーシ人であり,自分の間近で起こった事件としてチェルノブイリを記憶しているのだ。

 

「――(略)私達はいったい何者なんでしょうか? ――ベラルーシの歴史は苦悩の歴史です。苦悩は私達の避難場所です。信仰です。私達は苦悩の催眠術にかかっている。しかし,私はほかのことについても聞きたかったのです,人間の命の意味,私達が地上に存在することの意味についても。
 訪れては,語り合い,記録しました。この人々は最初に体験したのです。私達がうすうす気がつきはじめたばかりのことを。みんなにとってはまだまだ謎であることを。でも,このことは彼ら自身が語ってくれます。
 何度もこんな気がしました。私は未来のことを書き記している……」

 

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 『チェルノブイリの祈り 未来の物語』はロシアを含む世界中で翻訳/出版され,いくつもの賞に輝いた。この作品が,原子力発電に対する単なる問題提起ではないことが,その最大の理由だろう。筆者はただひたすらに,そこで生きた人々の物語を記録したのだ。
 だがこの作品がベラルーシで出版されることはなかった。そしてベラルーシのルカシェンコ大統領は,「ベラルーシにはチェルノブイリの問題は存在しない,放射能にさらされた土地は正常で,ジャガイモを植えられる」と宣言している。

 Dirge For The Planetでは,「これは惑星のための葬送曲」「これは地球のための葬送曲」と繰り返し,記憶のなかにしかない青い海を除けば,荒廃した大地しか描かれない歌だが,一か所だけそうではない部分がある。
 “Life slowly utters me, Remain.”――「生命は私にそっと囁く,生き延びろと」

 

 

規格化された癒しと自分探しに抗して

 

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 以上,SSoCが描こうとした物語を筆者なりに読み解いてみた。当然ながら,これはかなりの部分において筆者の個人的感想であり,どこまでがゲームの制作意図として本当に正しいのかは分からない。
 ただ,SSoCはここまで考えさせるだけの内容を持っており,それこそが,SSoCをほかのタイトルとは一線を画する作品に押し上げた理由だと思う。舞台の特殊性,移動の自由,マップの作り込みや,自律的に行動するNPC。それら一つ一つは重要なファクターではあっても,作品として人に訴える力とするには不十分だ。プレイヤーは1週間くらい新奇さを楽しんだあと,素早く飽きてしまうだろう。

 もちろん,これを批判することは容易だ。ゲームとは気分転換であり,したがってそれは軽やかで楽しく,ストレスとは無縁なものでなくてはならないと。このストレス社会のおいて,ゲームとは,それを趣味とするユーザーに癒しをもたらすことが重要なのではないか。手軽な自分探しをさせるぐらいが,ゲームとしてはちょうどいいのだ。

 その意見は完全に正しい。しかしその正しさは,プレイヤーの精神を締め上げるようなプレッシャーを与えたり,固定観念を翻弄するウィットに富んだゲームがあってはならないという主張を肯定しないし,さらに言えば,SSoCはそうした「重い作品」が商業的に成功しないという主張を,実績を以て否定した。

 ゲームはメディアでもある。ゲームという手法でしか語りえない事柄や,ゲームという手法が最も巧みに表現しうる事象はまだまだ残されていて,それに真正面から挑めば,結果は返ってくる。
 SSoCはそのことを教えている。

 

 

参考文献
『チェルノブイリの祈り 未来の物語』(1998年) スベトラーナ・アレクシエービッチ/松本妙子訳 岩波書店
『死に魅入られた人びと』(2005年) スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/松本妙子訳 群像社
『ナージャの村』(2003年) 本橋成一 平凡社

 

■■徳岡正肇(アトリエサード)■■
 「薄汚い男しか出てこないし,難度は鬼だし,ZONEは広すぎるし,キー!」という雰囲気のS.T.A.L.K.E.R.だが,ライターの徳岡氏の視線は,ゲームの向こう側にあるメッセージを見逃さないのである。いやまあ,鬼難度で男しか出てこないのはそのとおりなのだが,次回もお楽しみに。
  • 関連タイトル:

    S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl 日本語マニュアル付 英語版

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