ご存じの人はご存じのように,AK-47,その小口径化改良版であるAK-74といったカラシニコフ自動小銃は,ソビエト東欧およびその支援先の軍隊だけで使われているのではない。第三世界で広く売買される銃として,武装ゲリラや民兵といった非正規戦力にも愛用されてしまっている。そんな事情もあって,PCゲームのなかでもかなりポピュラーな銃器といえよう。
アフリカや中央アジアに,新聞記者として長い滞在歴を持つ著者が,そもそもカラシニコフ小銃とはいかなる存在なのか,そして「カラシニコフ小銃がある側の国」に,どうして内戦や略奪といった悲劇が付きまとうのかをレポートしたのがこの本だ。もともと,そうしたテーマの新聞連載に,増補加筆したものである。
西アフリカ武装ゲリラの少年兵と,その調達手段である子供の誘拐,はたまたソマリアにおける民兵やボディガード業の生活。実際にAKが使われている場面を追うことから入って,話題は少しずつ主題にズームインしていく。目をそむけたくなるような悲惨な話も数々入っているが,ソマリアで一時期AK1丁が80〜120米ドルだったなどという,事態全体を捉えるのに有益な周辺情報もふんだんにちりばめられている。
また,設計者であるミハイル・カラシニコフ氏へのインタビューも,本書の重要な説明要因を成している。第二次世界大戦に戦車兵として参加し,MP-44などドイツの突撃銃の猛威をまざまざと見せつけられたカラシニコフ氏は,祖国を守るために不可欠な銃としてAK-47を開発する。AKの設計では過酷な戦場での使用が最初から想定されており,隙間はわざと大きく,遊底は意図的に重くすることで,酷寒酷暑にも砂塵や水にも,少々凹んだ薬莢にも強い銃となった。
だがまさにその工夫の結果,どこでも誰にでも使える銃となり,冷戦構造のタガが緩んだのち,それが第三世界でAKが溢れ返って猛威を揮う原因となってしまう。これは兵器というものの理想が持つ痛烈な皮肉である。
本書の後半における著者の関心は,「失敗国家」そのものに広がり,AKの氾濫はその一局面として捉え返される。国連やさまざまなNGOによる平和創出事業にとって,いつでも重要なのがガン・コントロールだ。それを自主的に成功させたソマリランドの努力が,国際社会から見るとソマリアの一部であるがために顧みられないというパラドックスなど,読んでいて考え込んでしまう事例が,さまざまな形で積み上げられる。
冷戦の構図の中で,アメリカの手厚い庇護を受けてきた末に今日がある我々の社会。それとまさに同じ冷戦の理屈で動いていた別の社会が,どんな道を歩んで来,そして今後どんな道を歩んでいくのか。そこに向けて,AKを軸に斬り込んでいく本書の着眼点は,なかなかに的を射ている。ゲーム内でAKを手にプレイヤーに向かってくるNPC民兵達にも,純粋な政治的,宗教的情熱だけがあるのではなく,おそらくは家族と私生活があるだろうし,どこかの村では手ひどい略奪をしたりされたりしているかもしれない。また,自分で買ったAK本体や弾薬の値段を気にしつつ,撃っているかもしれないのである。
AK-47が時期的に朝鮮戦争には間に合っていないことを,本書であらためて気付かされた筆者のことはさておき,今年(2007年)はAK-47制式採用60周年である。ミハイル・カラシニコフ氏は7月6日に記者会見を行い,AKが関わる幾多の悲劇を第一に「政治の問題」とする以前からの見解を繰り返す一方で,AKのコピー品が大量に造られ,世界中の反政府勢力や武装集団に使われている現状を問題と認め,「AKの偽物」をなくす努力をすべきだと主張したという。
そんなAKコピー生産と,大がかりな密売については,本書の続編である『カラシニコフII』に詳しい。併せて読んでみることをお勧めする。