― 連載 ―


雷切(らいきり)
 義に生きた男,立花道雪 
Illustration by つるみとしゆき

 立花道雪は,1531年に豊後国(現在の大分県)の大友家の家臣,戸次親家(べっき ちかいえ)の次男としてこの世に生を受けた。幼名を八幡丸といい,14歳のときに戸次家の家督を継いで戸次鑑連(べっき あきつら)と名乗る。同年には病床の父の名代として,佐野親基が籠城する馬ヶ岳城を包囲,3000の兵で5000の兵を打ち破る活躍を見せた。
 1550年,二階崩れの変が発生して主君である大友家は二つに分かれてしまったが,戸次鑑連は嫡男である義鎮(のちの宗麟)の側について戦い,勝利を収めた。さらに1560年には大友家を離反した立花家を討ち,手柄として立花城に入城。また立花家断絶を惜しんだ宗麟の勧めによって,立花姓を継いで立花道雪を名乗った。以後,道雪は主君である大友宗麟を盛り立て,その優れた人柄や勇名は東日本にまで広まったという。
 しかし道雪の活躍とは裏腹に,大友家は離反者や反旗を翻す大名を出し続け,斜陽の一途をたどった。道雪はしばしば宗麟に諫言したが,その声は届かず,やがて宗麟から避けられるようになる。1585年,大友家に敵対した黒木家永の猫尾城の攻城中,道雪は病気にかかってしまった。そして同年9月11日には「異方に心引くなよ豊国の鉄の弓末に世はなりぬとも」との辞世の句を残して,この世を去った。
 「遺骸は甲冑を着せて,この地に埋めよ」と遺言していたが,敵陣に道雪の亡骸を置くことなどできないとした家臣が多く,養子の立花宗茂によって棺は立花城へと運ばれたという。輸送中は敵に襲われることがなかったばかりか,中には道雪の死を悼む敵の姿もあったらしい。数々の敵と渡り合うこと37回。一度も負けることなく,敵味方から「雷神」と称された希代の名将は,忠義に生き,その生涯を閉じた。

 雷を斬った道雪 

 往年の道雪は,足が悪かったことから戦場へは輿に乗って参戦し,輿の上から軍配を振るったり,銃で狙撃をしたりしたそうだ。輿に乗って参戦すると聞くと,後方に待機しているようなイメージがあるが,そんなことはまったくなく,なんと前線で指揮を執ったという。部下が尻込みすれば「命が惜しい者は我が輿をおいて逃げよ」と叱咤したそうで,半身不随でありながら前線で指揮を執る姿は,兵を奮い立たせるには十分だったようだ。
 また「本来弱い兵などおらぬ,いるとすればそれは大将の責任である」「武功は時の運である。功を焦って無駄死にするようなことはするな」など,部下思いの言葉を口にしており,多くの兵に慕われたそうだ。

 さて,道雪の足が悪くなった理由について,面白い逸話がある。道雪がまだ若かった頃の話だ。ある日,道雪が木陰で休んでいると天気が崩れ雨が降り始め,そして雷が落ちたのだ。このとき道雪は,腰の刀を抜くと雷を斬ったという。このおかげで半身不随になってしまったものの,一命を取りとめたとのことで,道雪は良い経験をしたと笑っていたという。
 この話を聞いた多くの人々は,道雪を雷神の化身として讃えるようになり,戦場での活躍も相まって雷神との異名を取るようになった。これは余談だが,あの武田信玄は道雪の勇名や活躍を聞いており,一度でいいから会ってみたいと語ったそうである。

 雷切 

 上記の逸話で,雷を斬った刀は,道雪の愛刀・千鳥(柄に鳥の飾りがあったことから千鳥と呼ばれたらしい)だったが,これを機に雷切(らいきり)と命名し,生涯にわたって肌身離さず所持したという。道雪の肖像画にも,雷切は一緒に描かれている。しかし雷切についての資料は少なく,雷切が現存するかどうかも不明だったので調べてみたところ,御花資料館(旧・御花歴史資料館)が見つかった。
 ここは立花家ゆかりの博物館で,立花家に伝来する品々を展示している。展示品リストを眺めてみたが,どうやら展示されているのは道雪の養子である宗茂以降のものが多く,雷切の名はどこにもなかった。そこで関係者に尋ねてみたところ,雷切は現在展示されていないが,実は秘蔵されているとのこと。数年に一度展示することがあるらしいが,今後の展示の予定は決定していないそうである。

 

ダインスレイフ

■■Murayama(ライター)■■
前回はMurayamaがシュウマイを半日で50個食べたという話をしたが,今回はパスタの話。一般的なパスタの乾麺には,大きい袋で1kg入りというのがある。Murayamaは一度に1kg全部茹で,1回で食べてしまうというのだ。「1kgぐらい俺でも」と思うなかれ,十分に茹で上がったパスタは大量の水分を含んでいるので,その総量たるや……。

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