女子中学生の問題児5人組を無事卒業させる育成ゲーム,「卒業 Next Graduation」。しかも今度育成する生徒は,ことごとくシリーズ第1作に登場した問題児5人組の娘という破天荒な設定だ |
キャラクターゲームで続編を作る際には,常に前作との整合性が問題になる。というのも,ゲームで設定されるシチュエーションはたいがいレアケースなのであって,2度も3度も繰り返される性格のものではないからだ。いわんや同一主人公においてをや,である。さりとて,せっかく人気の出たキャラはできれば引き続き使いたい。これはなかなかの難問で,この問題を回避せんがため"2"の冒頭でいきなり前作の主人公を事故死させ,遺されたヒロイン候補達を丸ごと再利用するという,冷徹極まりない挙に出た作品もあるくらいである。逆に,例えば開き直って続編ではストーリー分岐を事実上放棄し,エピソードとしての矛盾を回避したのが本連載第1回(「こちら」)で取り上げた「Galaxy Angel」シリーズだったりする。ストーリーこそが重要なキャラクターゲームにとって,矛盾のない続編はまことに難しい。
実際「卒業」シリーズにも,育成ゲームの大枠を崩してまで前作のキャラクター達を登場させた「卒業クロスワールド」という派生作品があるのだが,これは大方の予想どおり迷走に終わった。今回のNext Graduationでは,この問題にどう対処しているのか。まずはそこから見ていくことにしよう。
季節や日付によってさまざまなイベントが起きる。バレンタインデーは定番だが,母親からチョコレートをもらうこともあるのが,本作のあなどれないところかもしれない |
まあ新ヒロイン5人がみんな同じ学年であるとか,母親である以前の5人娘が揃いも揃ってシングルマザーというのは……努力して目をつぶるべき事柄かもしれない。人生いろいろなのかいろいろじゃないのか,さっぱり分からないのである。
前作の5人娘は"(当時としても)いまどき存在しないツッパリ娘"の新井,"自己中心的な体育会系娘"の加藤,"少々電波気味なミーハー娘"の志村,"富と権力を笠に着る高飛車娘"の高城,"病弱で真面目一方の堅物娘"の中本という,いたってハイパーリアリティな感じのキャラ造型を与えられていた。こうした要素は世代をまたぎつつどう反映されているだろうか?
例えば新井聖美の娘である新井勝美は,母親譲りの男勝り。ときに反抗的だがまじめで正義感が強く,将来は母親のような女性白バイ警官に憧れているという,実に"らしい"設定だ。前作をそのまま受け継ぐキャラといえよう。
加藤美夏の娘である加藤結夏は,勝ち気で活発な母親とは正反対で引っ込み思案なキャラクターとして描かれている。また,実家が蕎麦屋なのにもかかわらずイタリア料理が好きで,将来はその方向に進みたいと考えているが,家のことを考えて悩んでいる。つまりは反動形成型の継承ということだ。
志村まみの娘である志村もこも,"あの"志村を反面教師にしたのか,親に代わって家事などをこなすしっかり者である。しかし,親譲りのミーハーなところもあり,実家のコスプレ衣装店(!)を切り盛りしながら,自分もコスプレに興じたりする。前作の時点では一般的ではなかった「コスプレ」だが,前作の志村は今風に見るならさしづめコスプレイヤーというイメージはあったので,ここは前作のラインに沿いつつ,時代の流れに対応したものといえる。
高城麗子の娘である高城レイカは,会社を経営する母親について海外を転々としていた帰国子女。日本についてあまり知らず,自由奔放で明朗活発な性格と相まって「普通」の生徒と考え方の違いで衝突することが多いという設定だ。卒業IIにおける帰国子女シンディ桜井のテイストが生かされているのかもしれない。
中本静の娘である中本梓は母親譲りの能力を持ち,成績は優れているが周囲を見下している部分があり,教師を含む大人を信用せず,周囲を混乱させる虚言癖の持ち主という設定だ。
総じて,前作の資源を生かしながらも現代的なアレンジが加えられたものと位置づけられよう。
二世代作品(?)たる本作では,もちろん彼女達の親も関わってくる。母親達は先述のように,揃いも揃ってシングルマザーという穏やかならぬ設定である。先生は教え子だけでなく,彼女らとも交流してゆくことになるのだ。
そもそも今作には,生徒達や母親達と会話するイベントが多く盛り込まれている。イベントは育成パートの合間に校内で起こることもあれば,休日に街に出て「見回り」を行うことで誰かに会う,というパターンもある。休日にはこの見回りのほか,生徒の家を"家庭訪問"して補習を行ったり,生活指導を行ったりもできるほか,生徒と「お出かけ」して仲良くなることすら可能である。相変わらず分限を超えた活躍を見せる先生だが,当節その行動はかなり危うい気もする。
プレイヤーの補佐として副担任の新米教師,諏訪優美子が登場するのも今作の新機軸だ。彼女は基本的にプレイヤーのガイド役として,育成パートにおける解説を担当するのだが,見回りの際などは街で彼女に出会うこともあり,彼女とも会話が生じる。
純然たる育成ゲームであった前作と比べてアドベンチャー的な要素も加わっており,お楽しみ要素は増えているといえよう。
新井聖美・新井勝美
(左)母の新井聖美。かつての"ツッパリ娘"新井も,今は女性白バイ隊員を経て,実家の「新井モータース」を切り盛りしている。勝ち気なところは今も変わらず,か。(CV:鶴ひろみ) (右)娘の新井勝美。母親似で正義感が強く,血気盛んで喧嘩っ早い。働く母親の姿に憧れており,自分も白バイ警官になりたいと思っている。ゲーム中でのポジションも母親似で,不良化しやすく手のかかる生徒だ。(CV:吉原ナツキ) |
加藤美夏・加藤結夏
(左)母の加藤美夏。かつての看板娘が今はそば屋を切り盛りするおかみさん。今でも活発なのは変わらず,「子供の喧嘩に親が出る」タイプ。加藤と新井は高校時代から親交があったため,子供同士も旧知の仲である(CV:嶋方淳子) (右)娘の加藤結夏。親と反対に引っ込み思案で自分の意見を主張できないところがある。活発な親を窮屈に感じて,親に対し一歩引いたところがあるというのは,リアルといえばリアルな設定。そば屋の娘なのに(ゆえに?)パスタ好きというのもありそうな話である。(CV:鹿野優以) |
志村まみ・志村もこ
(左)母の志村まみ。高校生の頃の志村がそのまま大人になったといえばよいだろうか,家事まったくダメ,経営している店は万事娘が切り盛りしているという,前作を知る人ならさもありなんと思う設定だ。変わったのは髪型がドリルでなくなったことくらいか。(CV:芳野日向子) (右)娘の志村もこ。親を反面教師にして育ったのか,失格主婦の母に代わって家庭を切り盛りするスーパー中学生。とはいうものの,コスプレが好きという点ではミーハーな母親の血を受け継いでいるところも。CVキャストを知った前作プレイヤーの大半は「なんちゅうやかましい親子だ」と思ったとか思わなかったとか。"母親似"の高周波系である(CV:こやまきみこ) |
高城麗子・高城レイカ
(左)母親の高城麗子。実家である高城コンツェルンの海外支社長を務め,世界を飛び回るキャリアウーマンに成長。タカビーで"お嬢様"なところは今も変わらず。娘との関係は,俗にいう「友達親子」である。(CV:冬馬由美) (右)娘の高城レイカ。母親と一緒に海外を飛び回っていたため,インターナショナルスクール通いであり,そのため日本の常識にはうとい。さらに育った環境が環境であるため,一般庶民の生活感覚ともズレている。会話のそこここでビミョーに英語が混じるハーフ系のキャラ造型である(CV:植田佳奈) |
中本静・中本梓
(左)母親の中本静。優等生だった中本は今は小説家として活躍している。どのような本を書いているのかゲーム中では明らかにされていないが,まぁ高校時代のことを考えるとさしづめライトノベル系であろうか。家庭訪問時はともかく,外で出会うとき常に和服なのはどういうことなのだろう。(CV:久川綾) (右)娘の中本梓。ぱっと見母親にそっくりで,まるで中本が若返ったようである。ただ,母親とお揃いの眼鏡は伊達眼鏡。この点に関しては,前作の中本で眼鏡っ娘属性に目覚めたプレイヤー達には許し難いことかもしれない。(CV:鎌田梢) |
諏訪優美子
3年B組の副担任として,プレイヤーをサポートする新任教師。彼女も清華女子高校の卒業生で,母親達の後輩に当たる。「伝説の教師」(プレイヤー)にあこがれて教師になったという経歴だが,どうやら実際に教わったことはない模様。ちなみに,彼女の名前は一時期ザ・ドリフターズの仮メンバーであった「すわしんじ」に由来すると思われる。シリーズの伝統はしっかり守られているといえよう(CV:満仲由紀子) |
学期の始まりにはこの画面が出る。後ろで交わされる生徒達の会話で,各自の性格が分かる | 休日に街に出て見回りをすると,そこで生徒やその母親,さらには副担任の諏訪先生と出会うことがある。適度に会話して,彼女らとの信頼関係を築いておきたいところ |
育成パートのメイン画面。ここで5人の生徒のグループ分けや与える課題,指導方針などを指定する。最初にプレイするときはここで副担任の諏訪先生が簡単なチュートリアルを展開してくれる |
席順システムと異なるのは,グループごとに教育方針を変えられること,課題の成功判定は各人だけでなくグループごとにも行うことだ。教育方針は「きびしい」「ふつう」「やさしい」の3段階。前者になるほど課題の成功率は上がるが,生徒の感情は悪くなる(敬意が下がる)。
課題は,そのグループに属するキャラクターの半数以上が成功すれば,全体が成功したことになる。各人の成否だけでなく,グループ全体の課題の成否がパラメータ変化に影響するので,うまくグループを組み替えるのが重要だ。また,同じグループ内のキャラが連続して課題に成功すると「コンボボーナス」が与えられ,パラメータの上がりがよくなる。週の前半と後半にスケジュールを割り当てるのは,シリーズ歴代作品と同様である。
前述のように休日には「見回り」を行って,生徒が問題を起こしたりしていないか確認したり,家出した生徒を捜索したりできる。家庭訪問で生徒の指導や補習が行えるのも前述のとおりだが,補習では必ず課題が成功するので,パラメータを効率よく上げられる半面,教師への感情は少々悪くなる。また指導に関しては,生徒相手だけでなく,母親と一緒に三者面談の形で行うことも可能だ。ゲームシステムとして母親の出番を用意する,なかなか巧妙な策といえようか。学習指導や生活指導がパラメータに直接影響するのに対し,悩みを聞く,家庭相談(三者面談の場合)は教師に対する感情や母親に対する感情といった,直接表に出ないパラメータに影響を与えることになる。
このように本作ではイベント要素を強化しつつも,育成ゲームとしての枠は維持/強化されており,育成のやりがいは向上している。最近のプレイヤーの評価をどこまで得られるかが難しいところだが,前作という"記憶資源"を最大限に活用しつつ,プレイアビリティと今日的キャラ要素の両輪で進む作品になっているのは確かだろう。
前作のルールを引き継ぎ,春の演劇祭,秋には体育祭と清華祭(学園祭)があって,出し物のリーダーになる生徒を選ぶことで内容が変わる。画面中央は演劇祭でのひとコマ,高城と志村の「ロミオとジュリエット」だ。清華祭ではなぜか5人でバンド演奏をすることに(右)。イベントや育成の画面では,ここまひ氏によるSDキャラクターが活躍する |
評価を決めるのは中間と期末の試験だ。前作のように10問出題され,6問正解すれば合格となる。もちろん,トボけた回答続出だ | 無事に卒業できれば,画面左のように卒業証書が授与されるが,卒業できなければ……画面右のとおり,なかなかたいへんなことに。おいしいグラフィックスが挟めるイベントとはいえ,今どきは中学の卒業式でも袴姿になるのだろうか? |
卒業後は,教師あての手紙でこのように将来の夢を語ってくれる。教師をやってよかった(笑)と思う瞬間だ | プレイ後には教師としての評価が下される。今回「人間失格」(=五重婚)エンディングはないものと信じたい |
さて本連載を終了するに当たって,まとめじみた話を少々。ヘーゲル研究者アレクサンドル・コジェーヴの言説は,1980年代以降,国内でも広く受け入れられてきたわけだが,彼の予見した消費社会の結末は,アメリカのごとき「動物化」と,日本のごとき「スノッブ」が,消費の局面を二分していくというものだった。
快適な消費生活に浸かり,感情のスイッチを押されたときだけオートマティックに反応する,ハリウッド映画的な「動物化」方向の消費と,本質的には意味のない差異にわざとこだわって,価値体系を強化/再生産していく,マニア/オタクじみた「スノッブ」方向の消費。現実はミもフタもないほどこの予言に沿って進んでおり,それはゲーム体験といえども例外ではない。
ぶっちゃけこの連載の目標とテーマは,「動物化方向はほかの記事でカバーされるから,スノッブ方向で行ってみよう」ということだったりする。まあ,東 浩紀氏がかねて指摘しているように,萌え記号へのこだわりも,それが自動化している点において,やはり「動物化」方向と位置づけられるかもしれないが。
そして,まさにこの萌え記号に対するオートマティックな反応,それを前提としたビジネス展開こそが,おそらくはキャラクターゲームの過去と現在を分ける分水嶺なのだろう。「終わりなき日常」の中で,世界はもはや変わらないし,我々も変わらない(ように見える)。オールドファンの多くが,近年の作品の"まったり"ぶりに何となく覚える違和感の正体がこれだ。大文字の「主体」(性)を排除したキャラクターゲームの隆盛は,すでに我々の今日的感性,あり方そのものを指し示しているのか。そこに残る違和感は,旧世代の惰性に根ざすだけなのか。
とまあ,こんなことを考えながらこの記事を展開してきた。メインライターの柿島氏と「メイドさんでも妹さんでも何でもいいけど,保護対象を消費するって罪深くないですか? パターナリスム(父権的な権威主義)が歓迎される空間をデッチ上げてみても,それが権力であることに変わりはないでしょ?」「……あなたも夢のない人ですねえ(笑)」みたいな,アホなやりとりをしつつ。
レギュラー連載は今回でいったん終了するが,このジャンルに属する作品のリリース状況次第で,ときに復活することがあるかもしれない。いささかポストモダン的にシニカルな記事だが,今後ともお付き合い願えれば幸いである。(Guevarista)
快適な消費生活に浸かり,感情のスイッチを押されたときだけオートマティックに反応する,ハリウッド映画的な「動物化」方向の消費と,本質的には意味のない差異にわざとこだわって,価値体系を強化/再生産していく,マニア/オタクじみた「スノッブ」方向の消費。現実はミもフタもないほどこの予言に沿って進んでおり,それはゲーム体験といえども例外ではない。
ぶっちゃけこの連載の目標とテーマは,「動物化方向はほかの記事でカバーされるから,スノッブ方向で行ってみよう」ということだったりする。まあ,東 浩紀氏がかねて指摘しているように,萌え記号へのこだわりも,それが自動化している点において,やはり「動物化」方向と位置づけられるかもしれないが。
そして,まさにこの萌え記号に対するオートマティックな反応,それを前提としたビジネス展開こそが,おそらくはキャラクターゲームの過去と現在を分ける分水嶺なのだろう。「終わりなき日常」の中で,世界はもはや変わらないし,我々も変わらない(ように見える)。オールドファンの多くが,近年の作品の"まったり"ぶりに何となく覚える違和感の正体がこれだ。大文字の「主体」(性)を排除したキャラクターゲームの隆盛は,すでに我々の今日的感性,あり方そのものを指し示しているのか。そこに残る違和感は,旧世代の惰性に根ざすだけなのか。
とまあ,こんなことを考えながらこの記事を展開してきた。メインライターの柿島氏と「メイドさんでも妹さんでも何でもいいけど,保護対象を消費するって罪深くないですか? パターナリスム(父権的な権威主義)が歓迎される空間をデッチ上げてみても,それが権力であることに変わりはないでしょ?」「……あなたも夢のない人ですねえ(笑)」みたいな,アホなやりとりをしつつ。
レギュラー連載は今回でいったん終了するが,このジャンルに属する作品のリリース状況次第で,ときに復活することがあるかもしれない。いささかポストモダン的にシニカルな記事だが,今後ともお付き合い願えれば幸いである。(Guevarista)