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[CEDEC 2006#12]ゲーム学の先行研究を押さえるための基礎文献「The Game Design Reader」
2006/09/01 23:41
「The Game Design Reader」の概容を説明する,IGDA日本代表の新 清士氏
 時の話題と技術動向のみに留まらないのがCEDECの懐の深さだ。2日目第1講に催されたIGDAセッションは「ゲーム学研究の世界動向:『The Game Design Reader』の読み解きで見る先行研究」である。これは,日本でようやく立ち上げが試みられつつある,アカデミズム分野としてのゲーム研究にとって,重要な書籍を紹介するセッションだ。
 講演を担当したのはIGDA日本代表の新 清士氏,国際大学GLOCOM研究員にして,RGN(Research on Game design and Narrative。コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会)の主催者として知られる井上明人氏,そしてRGNのパーソナリティであり,ゲーム批評サイト「ゲームを語ろう」で有名な武蔵野大学 現代社会学部講師 増田泰子氏の3人だ。
 新氏が口切りとして同書の概容を語り,残る二人がそこに含まれる論点を補足する形で,説明が進められた。

■「Rules of Play」のハンドブック「The Game Design Reader」

 新氏の説明によれば,「The Game Design Reader: A Rules of Play Anthlogy」は,Katie Salten/Eric Zimmermanの「Rules of Play: Game Design Fundamentals」(来年には日本語版が刊行予定)の副読本的な位置付けの書籍である。
 総ページ数924ページというボリュームで,研究史上重要な34本の論文/エッセイを収録,さらにそれぞれの論文が「Rules of Play」のどこに対応するか詳細な解説があり,1955年のホイジンガから2005年の議論まで,ゲームデザイン論の研究史をまとめて把握できる内容になっている。ただし,大部ゆえに翻訳書の登場があまり期待できないこともあって,ことさら紹介したいということだ。
 ちなみに同書については,今年4月から8月にかけてDiGRA JAPAN内で輪読会が行われ,今後はご本尊たる「Rules of Play」の輪読を進めていく予定だという。




 新氏は「The Game Design Reader」の内容を,

1.古典的な遊び論から,ゲームデザイン論への変化
2.ナラティブ論(物語論)の変遷
3.プレイヤーのゲーム体験/オンラインゲームコミュニティ論
4.ゲーム開発論の変遷

の四つに分類し,このうち2.を井上氏,3.を増田氏が補足する前提で,主に残りの論点について,研究史と主要論文/書籍の紹介を行った。具体的な資料名やその意義についてはスライド資料を見てほしいが,氏が強調していたのは,

例えば「ナラティブ論」など,日本のゲーム研究が入り込むべき余地は十分にある
ゲームデザインの本質論/分析論,さらにはコミュニティやRMTなど,日本で開催されるDiGRA 2007に持ち越される議論は多々ある

という2点だ。多分にDiGRA JAPANのPRを兼ねた説明だったが,現時点でそれこそが日本のアカデミズム界におけるゲーム研究の立ち上げに繋がるわけであり,趣旨は一貫しているといえよう。



■議論が進むプレイヤーコミュニティ論,物語論

国際大学GLOCOM研究員でRGN(コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会)の主催者である井上明人氏
 新氏のバトンを受けて,GLOCOM 井上氏が解説したのは,主にプレイヤーコミュニティ論だ。氏が立論の枠組みとして採用したのが,Richard Bartleのプレイヤー類型化である。Richard Bartleは,もともとMUD(マルチユーザーダンジョン。MMORPGの先駆形態)の開発者にして運営者だったが,1996年に「HEARTS,CLUBS,DIAMONDS,SPADES: PLAYERS WHO SUIT MUDS」と題する論文を発表し,MUDのプレイヤーを四つの類型に分類して分析,MUDの開発と運営のための指針を得ようと試みている。その類型とは,

Achievers(達成者。ゲーム内で強くなり成果を上げたい)
Explorers(探検家。ゲーム世界を冒険し理解したい)
Socializers(社交家。他プレイヤーと交流したい)
Killers(殺し屋。他プレイヤーと戦い,競いたい)

の四つである。それぞれの類型間では,例えば達成者/探検家が互いに臆病者/若造とレッテルを貼りあったり,社交家と殺し屋がどうにも折り合わなかったりで,それぞれ対立し合う勢力としてゲームの運営に影響を与える。その数的バランスを見たり,それぞれのプレイヤーの動きを制御したりすることで,MUDのうまい運営が行えるのではないかという考えだ。また,その考え方の延長線上で,あるゲームがゲーム性重視であるか社交性重視であるかという分類が可能になる展望も持てる。
 シンプルな枠組みだけに現在は異論も多いとしつつ,氏はプレイヤーコミュニティ論の入り口として,この研究を挙げた。



 続けて氏は,先ほどの文脈の中からプレイヤー間対立の問題をクローズアップし,Linda Hugesの「Beyond the Rules of the Game: Why Are Rookie Rules Nice?」(1983)を引いて,女の子達がルールを曖昧にしたまま「バレーボールのようなもの」をしているときは楽しめているのに,そこに男の子達が入ってきて競争を求め,ルールの明確化が求められると面白くなくなるといった事例研究を紹介,併せてルールの曖昧さの重要性に言及した先行研究をいくつか挙げた。
 また,「ファイナルファンタジーXI」の攻略記事をめぐる事件の例を挙げ,それを職業同士の相性をめぐる,探検家タイプと社交家タイプの意見対立として読み取ってみせた。



 Richard Bartleの説はプレイヤー分析に力点があるわけだが,これの延長として井上氏が語ったのは,プレイヤーとゲームシステムの相互関係である。もちろん,先にゲームシステムがあり,それに合わせてプレイヤーの活動が展開されるのが基本ではあるのだが,逆にプレイヤーの行動が,ゲームのシステムやデザインに影響を与える側面もある。これは,オンラインゲームに親しんでいる読者であれば,格別疑問もなく飲み込める論点だろう。
 そして,プレイヤーのさまざまな活動に関する研究例として,氏はEdward Castronovaの「Virtual Worlds: A First Hand Account of Market and Society」(2001年)を例に挙げた。これは,MMORPG「EverQuest」(邦題 エバークエスト)の世界に存在する資産の総額を計算してみたというもので,ゲーム内世界を一つの国として試算すると,驚くべきことに2001年時点において,世界で30位くらいにランクインしてしまったというお話だ。
 氏はさらに一歩踏み込んで,ゲームシステム側の想定と異なるプレイヤーの活動例を国内で探求していくならば,「やり込み」とはもともとそういう行為であったはずという研究例にも触れた。



ゲーム批評サイト「ゲームを語ろう」で知られる,武蔵野大学 現代社会学部講師 増田泰子氏
 さて,最後に増田氏が補足した論点はナラティブ論,つまりゲームと物語の問題だ。氏は「物語を経験させる方法」と題して,Marc LeBlancが「Tools for Creating Dramatic Game Dynamics」の中で主張する「ゲームデザイナーは(物語の)作者ではなく,間接的にドラマが生じる環境を作ることしかできない」といった意見や,彼が考察した,必然性と不確実性の組み合わせがドラマを生み出す仕組みについて説明した。



 また,そこから物語と異なるゲームのインタラクションについて深めていったMichael Mateas/Andrew Sternの「Interaction and Narrative」や,Henry Jenkinsの「ゲームデザイナーは物語を語るのではなく,世界を彫刻する」といった言葉,その言葉の具体的な中身などについて紹介し,ゲームが物語であるか否かといった議論の段階はすでに過ぎており,ゲームが物語を生み出す装置としてどのように設計され,機能しているかが現在の論点であるとした。もちろん,物語そのものをプレイ内容とする作品については,別の考え方が必要なことにも触れつつ,だが。



 最新の概説書(今回はそのガイドブックだが)を出発点として,そこで取り上げられた各論をたぐっていくという読み方は,先行研究の把握方法としては基本中の基本であり,その意味で今回のセッションに,これといったヒネリや主張があったわけではない。
 だが,そもそもゲーム学そのものが今から立ち上げられようとする日本において,これがまず必要なステップであることに疑いの余地はない。日本独自といえるゲーム研究の成立には,まだまだ時間がかかりそうな気もするが,地道な“種まき”の努力に敬意を表したい。(Guevarista)



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http://www.4gamer.net/news/history/2006.09/20060901234149detail.html