― 連載 ―


物干し竿(ものほしざお)
 謎の剣士,佐々木小次郎 
Illustration by つるみとしゆき

 佐々木小次郎(不明〜1612年)といえば,巌流島(船島/向島)において宮本武蔵(不明〜1645年)と戦って敗れ去った剣士として有名である。一般的に決闘で敗れた側の剣客は,あまり人気が出ないものだが,なぜか小次郎の人気は高い。ヘタをするとその人気は武蔵を食ってしまいかねない勢いである。おそらく小次郎には,「美しい青年剣士」というイメージがあるため,それが手伝っての人気なのだろうが,それだけでは多くの人々を虜にするのは難しい。では彼の魅力とはいったいなんだろう? 今回はそんな小次郎の魅力と,彼が振るった「物干し竿」と呼ばれる長刀について紹介してみよう。
 小次郎について調べてみると,多くの謎に突き当たる。出身地についても越前(福井県),長州(鹿児島県),豊前(福岡県)と資料によってバラバラで,鐘捲流の開祖である鐘巻自斎(生没年不明)に師事したとされており,彼から表の太刀として電光/車/円流/浮身,裏の太刀として金剛/高山/無極といった刀法を授かったという。ちなみに師事したのは鐘巻自斎ではなく,その師である中条流の富田勢源という説もあるが,富田勢源の全盛期が1558年〜1570年付近なので,これでは1612年に巌流島に臨んだ小次郎は,かなりの高齢になってしまうので妥当ではない。なお余談だが,以前「こちら」で紹介した伊東一刀斎も鐘巻自斎の弟子であり,それを信じれば,小次郎と伊東一刀斎は兄弟弟子の関係にあたる。
 鐘巻自斎のもとを離れた小次郎は,武者修業のため諸国を放浪した。そして巌流と呼ばれる流派を創始して「燕返し」の剣法を考案,そして細川家の剣術師範となる。だが,1612年のある日のこと。宮本武蔵と小次郎の双方の弟子が互いの師の優劣でもめることになり,これを決着すべく巌流島で剣術者同士の腕試しが行われることになった。これが巌流島の決闘である。

 巌流島の決闘 

 門弟同士の争いから互いの腕を試すことなった小次郎と武蔵は,1612年に巌流島で対決した。この戦いで小次郎は物干し竿と呼ばれる長刀を用い,武蔵は船の櫂を削って作った木刀を手に戦った。そして小次郎は秘剣「燕返し」を駆使したが武蔵にかわされてしまい,木刀の鋭い攻撃を受けて敗れ去ってしまったのである。ここまでは小説などでよく語られるところだが,この決闘は単に武芸者が腕を競うという以外に,陰謀が巡らされていた可能性がある。
 「沼田家記」によると,小次郎は当初の約束どおりに一人で巌流島へと来たが,実は武蔵側では状況が違っていた。武蔵の思惑はともかく武蔵の弟子達は巌流島に来て隠れていて,決闘によって昏倒した小次郎が目を覚ますと,隠れていた武蔵の弟子が襲って殺したというのだ。これを知った小次郎の多くの弟子達は怒りにふるえて武蔵を追撃した。記録によれば困った武蔵は,細川藩家老の沼田延元を頼り,鉄砲兵に護衛されながら豊後へ送られたという。
 ここまで読んでおかしな点がある。勝利した武蔵は遺恨ではなく試合だったために,とどめは刺さないという一撃の約を守ったと言われている。だとすれば,わざわざ弟子達が出てきて小次郎を殺すだろうか? 武蔵の意向を無視して勝手に小次郎を殺したのであれば,その行為は武蔵の剣客/武芸者としての名をおとしめることになるだろう。そう考えれば実に不可解な話だ。ひょっとしたら小次郎を殺害したのは,武蔵の弟子ではなく別の人物なのかもしれない。そこで下記のような異説が生まれたのかもしれない。

 小次郎は出身についても謎が多く,その中には,小次郎は豊前の岩石城主・佐々木一族の血筋だとするものがある。佐々木家は反体制派の旗手として相当な実力があった。過去には一揆に加担した過去もあり,細川家はなんとか懐柔したかったようだ。そこで小次郎を藩の剣術師範として召し抱えたが,小次郎の人格や腕に惚れ込んだ人が続出。必要以上の人望を集めてしまったことから藩内に反体制派の台頭を招いてしまったのだ。細川家としてはこの勢いは止めなければならないが,難癖を付けて切腹させようものなら反体制派が爆発する可能性もある。そこで細川氏は以前から交流のあった宮本無二(武蔵の養父)を思い出し,武蔵と小次郎の二人を戦わせて,それに便乗した暗殺計画を立てたというのだ。これを知らずに戦った武蔵もある意味被害者であり,この説の真偽はともかく,実に興味深い内容といえるだろう。

 燕返しと物干し竿 

 残念ながら物干し竿は現存していない。武蔵の養子である宮本伊織が建てた小倉手向山武蔵顕彰碑に「巌流(小次郎)は三尺の白刃を手に……」と書かれていることから,物干し竿は刃長だけでも90センチ強だったことがうかがえる。また「二天記」などには,物干し竿は備前長船長光であったとの記述がある。備前鍛冶には二人の長光がおり,初代が順慶長光,二代目が左近将監長光で,両者共に備前鍛冶を代表する名工である。時代的に考えると,物干し竿はおそらく二代目長光の作品だと思われる。優れた備前刀は兜割りを可能にしたというのだから,小次郎のそれも相当な業物だったに違いない。
 小次郎が長刀の扱いに長けた理由は,なかなかに面白い。小次郎が鐘巻自斎について修行していた頃の話。中条流/富田流の流れを組む鐘捲流では,さまざまな武器に精通する必要があり,小次郎は師の練習につきあうことも多かった。そんな中,小太刀を持った師を相手に長刀を振るっているうちに,長刀の扱いが巧みになったらしい。そして才能が開花して巌流を起こすことになったのだ。
 燕返しについては諸説あるが,どうやら後世のネーミングであるようで,本来は虎切/虎切剣(こせつ/こせつけん)が正式名称であるようだ。詳細は不明であるものの長刀を大胆に使った切り返し技だったといわれており,物語では「飛ぶ燕を切り落とすほどの高速の切り返し」だったと表現されている。

 巌流島の決闘以降,武蔵はその戦いについてほとんど口を開かなかったそうで,著書「五輪の書」にも小次郎の名は記されていない。さらに歴史的資料に乏しいことから,小次郎は架空の人物とする動きもあるようだ。ひょっとすると佐々木小次郎の名前は,政治的な謀略によって歴史から抹殺されようとしたのかもしれない。
 当時,巌流島は長門側からは船島,豊前側からは向島と呼ばれていたが,小次郎と武蔵の決闘以後は「巌流島」と呼ばれることになった。本来であれば勝者であるはずの武蔵にちなんだ名前が付いても良さそうだが,なぜか敗者であるはずの小次郎の流派が島の名前とされたのは,なんとも不思議な話である。豊前の英雄剣士の名前は,そう簡単には消せなかったということだろうか。

 

スクレップ

■■Murayama(ライター)■■
ゲーム,ケータイ,フィギュア,ファンタジーと,さまざまなジャンルで活躍するMurayama。最近では渋谷のショップやクラブを取材する機会も増えてきたそうで,仕事の幅はさらに広がっているようだ。そんなMurayamaの最近の興味は,アジアの近代史だという。しかし,開口一発「自分が日本人であることを誇りに思う」と宣言するのは,ちょっと心配になってしまう。今後の彼の活動内容からも,いろんな意味で目が離せそうにない。

【この記事へのリンクはこちら】

http://www.4gamer.net/weekly/sandm/052/sandm_052.shtml