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Access Accepted第444回:世界初のゲーム機を開発したラルフ・ベア氏逝く
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印刷2014/12/15 12:00

業界動向

Access Accepted第444回:世界初のゲーム機を開発したラルフ・ベア氏逝く

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 1972年,史上初の家庭用ゲーム機「Magnavox Odyssey」の商品化に成功したラルフ・ベア氏が,2014年12月6日に亡くなったことが報じられた。「Magnavox Odyssey」は短命なハードウェアだったために,筆者を含めて多くのゲーマーにとってなじみが薄いかもしれないが,ベア氏は「テレビを使ったエンターテイメント」という発想を得て,現在のゲーム産業の礎を築いた先駆者の1人だ。今回は,そんなベア氏の業績を讃えて,彼の人生や「Magnavox Odyssey」の軌跡を追ってみたい。


家庭用ゲーム機の父,ラルフ・ベア氏


 2014年12月6日,ゲームの歴史に大きな足跡を残したラルフ・ベア(Ralph Baer)氏が亡くなった。享年92歳。

非常に几帳面だったというラルフ・ベア氏は,「Brown Box」をはじめとする試作機や関連文書など,個人で保存していたものすべてを2006年,スミソニアン博物館に寄付した。父親と同じく著名なエンジニアとなった長男の尽力もあり,2010年には全米発明家アカデミーの殿堂入りを果たしている(画像はラルフ・ベア氏の公式サイトより)
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 150以上の特許を持ち,その功績を認められてジョージ・W・ブッシュ大統領から,技術分野最高の名誉とされる「アメリカ国家技術賞」を授与された経験もあるベア氏だが,彼の発明品の中で最もよく知られているのが,1972年に発売された世界初の家庭用ゲーム機「Magnavox Odyssey」だ。
 最大でも2〜3個しか表示されない白いドットをパドルで動かすだけの,非常に簡単なゲームが用意されており,サウンドもなく,スコアなどは記憶するか紙に書くしかなかった。
 それぞれのゲームに合わせてテニスコートやサーキット,迷路などが描かれた透明フィルム(オーバーレイと呼ばれた)をテレビ画面に張り付けるところも,時代を感じさせる。画期的だったのは,ゲーム選択用のカートリッジを入れ替えることで,違うゲームを遊べるところで,最終的には計27種類もの対応ゲームが発売されて,世界累計で35万台のヒット商品になった。

 ベア氏は,1922年にルドルフ・ヘインリック・ベアとしてユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれた。10代の頃にナチスのユダヤ人排斥運動が激しくなったこともあり,1938年,ベア氏が17歳のときに家族とともにオランダに移住,さらにニューヨークに渡って,週給12ドルの工場労働者として働いていた。だがある日,バス停にあったラジオ修理工養成学校の看板をみてエンジニアを志し,1940年に養成学校を卒業。すでにアメリカ国籍を取得していたベア氏はヨーロッパ戦線に招集され,ロンドンにあったアメリカ陸軍の情報部門で働くことになる。銃にも興味があったようで,ヨーロッパのさまざまな銃を持ち帰っている。

 戦後,退役兵士向けの奨学金を利用して学校に通い,1949年にテレビ工学の学士号を習得した。卒業後,医療機器や送電検知装置のメーカーを渡り歩いたが,1956年に軍事企業のSanders Associates(現BAE Systems)に入社。レーダーなどの開発を担当し,1987年に退職するときには500人以上のエンジニアを指揮していたという。
 Sanders Associatesは社外勤務も認めていたようで,退職以前の1983年に電子玩具を開発するメーカーに入っており,最後までそこに在籍していた。


「Magnavox Odyssey」の誕生


 「Magnavox Odyssey」につながることになる研究は,1966年に始まったという。1964年に東京オリンピックが開催されたことをきっかけに,日本の家電メーカーがカラーテレビの生産を開始し,それらが輸入されたことによってアメリカの白黒テレビの価格が大幅に下がり始めた。それを見たベア氏が,「テレビを使ったエンターテイメント」を考えたことがきっかけになったようだ。ベア氏はSanders Associatesの上層部に申し入れてわずかな予算を獲得し,1968年には試作機も作られていたという。
 試作機の筐体はベニヤ板でできており,木目がプリントされたテープが貼られていたため,「Brown Box」(茶色の箱)と呼ばれていた。

「Magnavox Odyssey」のピンポンゲームの実演デモを行う,1969年のベア氏と協力者のビル・ハリソン(Bill Harrison)氏。このゲームを見たノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell)氏がAtariを設立して「Pong」を作り,それが大ヒットしたことで,新しい市場の幕が開いたのだ
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 Sanders Associatesにとっては民間用の電子玩具など畑違いの分野だったので,ベア氏はプロトタイプを持って販売元を探さなければならなかった。彼のコンセプトはなかなか理解されず,General ElectronicsやMotorolaのような大企業には見向きもされなかった。ようやく興味を示してくれたMagnavoxのマーケティング担当副社長に出会うまでに2年を費やし,同社の役員会で製品化が承認されるまでにはさらにもう1年を要した。
 ベア氏はこの頃,「Brown Box」の売り込みの助けにしようと,ライトガンなどの周辺機器も開発していた。ファミコン以前の任天堂も「Magnavox Odyssey」向けの光線銃をアメリカで発売しており,これが任天堂がゲーム機に着目するきっかけの1つになったのではないかという意見もある。

 また,本連載の第349回「Atariの歩んだ栄光と苦難の歴史」にも書いたことだが,Magnavoxが「Magnavox Odyssey」の発表会を行った際,紹介されていたピンポンゲームをヒントにして生まれたのがAtariの「Pong」だ。この「Pong」が一世を風靡し,テレビゲームというエンターテイメントを人々に知らしめることになったのだが,一方で「Pong」の大ヒットは,ベア氏とAtariの間に,泥臭い訴訟をもたらすことになった。

 Magnavoxは結果的には勝訴するが,そのときにはすでに経営が苦しくなっていたようで,開発が進められていた「Magnavox Odyssey 2」はお蔵入りになり,1977年にはNorth American Phillipsに買収されてしまった。ただ,この買収によって「Magnavox Odyssey 2」に再び光が当てられ,ベア氏の陣頭指揮により1978年に発売されることになった。これは,1982年に日本へも「オデッセイ 2」として輸入されている。
 その後のことは,皆さんもよくご存じだろう。1980年代始めに登場した任天堂のファミリーコンピュータが,それ以前のゲーム業界地図をすっかり塗りかえたあと,さまざまなハードウェアがしのぎを削りつつ,現在へ続いている。

これは,アメリカの公共放送PBSが,2012年に作成した当時89歳のベア氏をテーマにした短編ドキュメンタリーの1シーン。自分にチャレンジすべきものを与えるため,機械作りを続けていたという
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 「Magnavox Odyssey」が発売されてから40年あまり。振り返ってみれば,ゲーム業界の大きな進化には驚かざるを得ないが,その種をまいた1人がベア氏であることは間違いない。2006年に50年以上連れ添った愛妻と死別したベア氏は,最後を迎えるときまでニューハンプシャー州の自宅で機械作りに励んでいたという。2人の息子と1人の娘,そして4人の孫に見送られ,ゲーム業界の先駆者は静かに去っていった。冥福を祈りたい。

著者紹介:奥谷海人
 4Gamer海外特派員。サンフランシスコ在住のゲームジャーナリストで,本連載「奥谷海人のAccess Accepted」は,2004年の開始以来,4Gamerで最も長く続く連載記事。欧米ゲーム業界に知り合いも多く,またゲームイベントの取材などを通じて,欧米ゲーム業界の“今”をウォッチし続けている。
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