― 連載 ―


獅子王(ししおう)
 鵺と源頼政 
Illustration by つるみとしゆき

 近衛天皇(1139−1155)の仁平年間(1151-1154)のことである。夜な夜な紫宸殿の上空に黒雲が現れては奇妙な鳴き声が聞こえるようになり,そのせいで近衛天皇は寝込んでしまった。宮中は騒然となり,事態の収拾を任されたのが源頼政だった。源頼政といえば,大江山で悪事を働く悪鬼・酒呑童子を倒した源頼光のひ孫にあたる人物だったことから,この抜擢は当然の成り行きだった。ちなみに源頼光の活躍については「こちら」を参照してもらいたい。
 ある夜のこと。源頼政は例の黒雲が出現し,奇怪な声が聞こえるのを待っていた。すると虎鶫(とらつぐみ)のような声が聞こえ,丑寅虎の方角(北東)にもくもくと黒雲が湧き上がり,その中から頭が猿,胴が狸,手足が虎,尾が蛇という姿の怪物「鵺」(ぬえ)が出現した。
 源頼政は弓に矢をつがえると,鵺の鳴き声を頼りに矢を放った。その攻撃は見事に命中したが,矢が刺さっただけでは絶命しなかったため,猪早太(いのはやた)が太刀で仕留め,鵺の体をバラバラに切り刻んだうえで海に流したという。
 こうして一連の騒動は収束し,功績が評価された源頼政は,近衛天皇から獅子王という名前の太刀を下賜されたのである。

 獅子王 

 源頼政が近衛天皇から授かった獅子王は,三尺五分五寸(102.5センチ)もの長さの太刀だった。一部の資料には,獅子王は破邪の剣のような記述があるが,これには理由がある。
 源氏には摂津源氏,多田源氏などさまざまな系統があり,嫡流は時代によって異なる。当時,源氏の嫡流は源頼政らの摂津源氏であったことから,頼政は大内守護などの任に就いていた。これは,今で言うところの宮中を警護する近衛部隊のような役職だ。ただ,単なる警護職ではなく,大内守護の警備はもちろん,宮中の邪気を払う任も兼ねていたという。
 そうしたことから,鵺を退治したことで下賜された獅子王には,単なる褒美としての意味合いだけではなく,今後(破邪の力のある)獅子王を持つことで,よりいっそう邪気を払うようにとの意味が込められている……というわけだ。
 実際に獅子王が振るわれたエピソードはほとんどないが,なんと現存しており,東京国立博物館が所蔵している。

 歌人,頼政 

 鵺を倒した腕前はもちろんだが,頼政は歌人としても優れていて,彼の歌は勅撰和歌集にも収録されている。彼は鵺を二回倒しているが,最初に倒したときに左大臣の藤原頼長が,「不如帰(ほととぎす)なほも雲居にあぐるらん」と上の句を詠みかけると,頼政は「弓張月のいるにまかせて」(弓に任せて射ただけ)と謙遜した下の句詠み,周りにいた者を感心させたという。また,二条天皇の時代に鵺が現れたときは,鵺がまったく姿を見せないので,音の大きい鏑矢で威嚇し,鵺が鳴いた瞬間に二本目の弓で倒している。このときは右大臣藤原公能が「五月闇名をあらはせるこよひかな」と読めば,即座に「たそがれどきも過ぎぬと思ふに」と詠んで,二条天皇から授かった御衣を肩にかけると,何事もなかったかのように引き上げていったという。なんと趣のある行動であろう。
 頼政は晩年まであまり出世することはなく,正四位という立場だったが,「のぼるべき頼りなき身は木の下に椎をひろひて世を渡るかな」と詠んだ。これは椎と四位をかけた歌であり,これにはっとした平清盛は,頼政を従三位に昇進させたという。

 晩年の頼政は源氏の長老として源氏再興のために蜂起し,平清盛とその一族を相手に戦った。しかし,宇治の戦いで大敗を喫してしまい,1180年5月26日,平等院の側で自刃。齢76歳だったという。これに続いた源頼朝や源義経は1185年に壇ノ浦の戦いで平家を打倒し,源氏の天下となったのは,読者諸氏のよく知るところだろう。

 

鬼神大王波平行安

■■Murayama(ライター)■■
Murayamaの右手の甲には,かなり目立つ火傷のあとがある。昔,父親と二人で「我慢比べをしよう」という話になり,火のついたマッチを手に乗せて勝負したというのだ。結局,お互いマッチが燃え尽きるまで我慢したため,勝負は引き分けとなったそうだが……,もう少し普通っぽい著者紹介ネタをお願いできませんかね,Murayamaさん。

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