― 連載 ―


蜻蛉切(とんぼきり)
 本多忠勝 
Illustration by つるみとしゆき

 武器として,美術品として一目置かれる日本の武具。その中でもとくに優れた名剣や名槍は,「天下五剣」「天下三槍」などと呼ばれており,刀剣の歴史を語るうえで欠かせない存在となっている。当連載ではこれまでに,「日本号」「大典太光世」「童子切安綱」などを紹介しているが,今回は天下三槍の中に注目し,その中の「蜻蛉切」を紹介してみたい。
 まずは所有者である本多忠勝(1548-1610)について。忠勝は,三河(愛知県)の松平広忠(家康の父)の家臣・本多忠高の長男として誕生した。幼名を鍋之助といい,幼少期は妙源寺に通って孫子の兵法を読破,槍の鍛錬なども積極的に行っていたという。
 そして1559年に元服すると本多平八郎忠勝と名を改めた。ちなみに忠勝というネーミングは,「ただ勝つのみ」という意味であり,主君である松平元康(後の家康)が付けたものと伝えられている。
 忠勝は家康と共に各地を転戦。初陣の大高城攻め(1560年)の後,姉川の合戦,長篠の合戦などで活躍し,なんと関が原の戦い(1600年)まで通算57回もの戦歴を重ねる。 しかも数々の戦で前線やしんがりといった危険な状況に身を置いたにもかかわらず,なんとその身に傷一つ負わなかったと伝えられている。まさに戦国時代きっての武人といえるだろう。
 最終的には伊勢(三重県)にて10万石の大名となり,1609年には嫡男の忠政に家督を譲り隠居。翌年にその生涯を閉じた。江戸幕府の創業に貢献したことから,のちに徳川四天王/十六神将とも称された。

 蜻蛉切 

 忠勝は黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)を着用し,頭には鹿の角をあしらった鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)をかぶっていた。そして忠勝が振るった槍が蜻蛉切である。
 蜻蛉切という名前は,忠勝が槍を立てて休んでいたところ,どこからか一匹の蜻蛉が飛んできた。そして穂先に止まったかと思うと,その蜻蛉は真っ二つになってしまった,という逸話に由来する。話半分だとしても,その切れ味は大したものだったのだろう。
 蜻蛉切の製作者は藤原正真作(ふじわらのまさざね)と伝えられている。正真は刀剣ファンなら一目置く村正一派の刀工の一人で,三河文殊とまで称された男。なお一般的には,村正といえば徳川家に害をなす刀のように伝わっているが,実際のところは三河を中心に多く流通していた刀剣であり,徳川家の武士も敵対する勢力もみな使っていたというのが真相だ。
 興味深い点は,忠勝は状況によって柄を交換していることだろう。当初は黒塗りの一丈三尺(約3.9メートル)の柄を装着して戦っていたそうだが,後述する一言坂の戦いでは,青貝螺鈿の二丈(約6メートル)の柄に交換して戦っている。また晩年の忠勝は柄を短くし,「槍は技量にあった長さが一番」と語ったことから,忠勝は常に自分にとって最適の仕様で戦っていたようである。とはいえ,柄の長さを変えたにもかかわらず,それに即座に対応して使いこなしたというのだから大したものだ。

 唐のかしらと本多平八 

 忠勝の武勇は日本全国に知れ渡り,敵から恐れられると同時に賞賛もされた。その武勇は戦国時代のファンであれば心が躍るものが多いので,ここではいくつか紹介してみよう。
 とくに有名なのが一言坂の戦いであろう。戦でしんがりといえば軍の最後尾にあって敵を釘付けにし,本体の撤退を手助けするもの。決死の覚悟が必要な立場である。
 1572年,忠勝は敗走する家康軍を守るために一言坂でしんがりを務め,見事に家康の撤退を成功させている。一説によると,蜻蛉切を手に最後尾に残った忠勝が,たった一人で追いすがる武田軍を撃退したということになっている。そして撤退した武田軍は一枚の立て札を残していった。そこには,「家康に過ぎたるものは二つあり,唐のかしら(兜/飾り)に本多平八」との狂歌が書かれていたという。もちろん,ここでいう本多平八というのは,本多平八郎忠勝のことだ。
 また織田信長からは「日本の張飛」と称され,豊臣秀吉も「西の立花宗茂,東の本多忠勝」と賞賛したという。ほかにも姉川の合戦で,朝倉軍1万が家康本陣に迫る局面では,なんと朝倉軍に向かって単騎駆けを敢行するという大胆さも見せている。そしてこれに続いた家康軍は,不利な戦況を打開しているのだ。蜻蛉切の威力もすごいが,その使い手も天下無双の男である。

 筆者は,忠勝の魅力は徳川家の忠臣として単に勇猛なだけではなかった点にあると思っている。本能寺の変で信長が没したときにそれを追おうとした家康を諫めたと伝えられているし,関ヶ原の戦いでは山に陣取った毛利軍を見て,戦う気があれば平地に布陣するだろうと,毛利が動かないことを見破ったといわれている。
 忠勝は,一生を徳川家に捧げた身でありながら,一度だけ自分のわがままを言ったことがあった。それは関ヶ原の戦いにおける戦後処理でのこと。関ヶ原の戦いで真田昌幸/幸村父子は西軍について家康に幾度と辛酸をなめさせている。そのため家康は,二人を死罪にしようと考えたが,それを止めたのが忠勝だったそうだ。忠勝の娘は真田信之に嫁いでおり,昌幸と幸村は娘婿の父と弟にあたるため,忠勝は,(おそらく娘のことを考えて)これを救おうとしたのだ。聞き入れない家康に対して,最終的には「殿と一戦交えるまで」と啖呵をきったという。家康と共にあり,40年以上わがままなど言ったことがない忠勝の行動を見た家康は,考えを改め昌幸と幸村の両名を助命したと伝えられている。

 

ピナカ

■■Murayama(ライター)■■
前回の著者紹介でお伝えしたとおり,仕事の関係で渡米していたMurayamaだが,4月3日の午後18時30分頃,ほうほうの体で自宅に戻った模様。出国時には飛行機に乗り遅れ,自腹(約28万円)で往復チケットを購入するはめになり,ワシントンDCでは,同性愛者の方々が集う公園でゲイカラーの上着を着ていたために,貞操の危機を感じたという。そして帰国時には,サマータイム期間だということを失念し,危うく再び飛行機に乗り遅れそうに……。ネタというにはあまりにも気の毒過ぎる体験の数々を前に,言葉が出てこない次第である(いろいろ言いたいことはあるのだが)。

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http://www.4gamer.net/weekly/sandm/055/sandm_055.shtml