第二次世界大戦に関わったさまざまな国や政治勢力を追体験できるストラテジーゲーム「ハーツ オブ アイアンII」で,さまざまな歴史的課題に挑戦するこの連載,今回はここ,スペインからお届けします。
20世紀を迎えたスペインは,ヨーロッパでも近代化の遅れた地域となっていました。大革命以前のフランスと同様に,極端な貧富の差がある社会では左右両派の対立が絶えず,王政が揺らいでからというもの,政権は交代を繰り返し,そのたびに少なからぬ血が流されます。
右派を支持するのは,大地主,教会(この当時は大資本家を兼ねる),軍人,国王周辺といった高位の社会階層であり,左派の支持基盤は労働者,農民(多くが小作人),小ブルジョワジーにありました。20世紀前半という時代を背景として,左派にはソビエト共産党/コミンテルンの影響下にあるマルクス主義者や,革命を求める社会主義者がいたのはもちろん,バクーニン主義などアナーキズムが現実の労働運動として力を持っていたのが,スペインの特徴です。
第一次世界大戦に参加しなかったにもかかわらず,国王と軍がモロッコの支配に固執して戦争の道を歩んだことは,左派による反対運動を激化させる一方,軍人の中に「アフリカニスタ」(アフリカ主義者)と呼ばれる有力な一群を生み出します。後に政権を握るフランコ将軍も,その一員でした。
高まる不満を乗り切るべく,国王アルフォンソ13世はプリモ・デ・リベラなど軍人に独裁権力を与えますが,左派に対する行き過ぎた弾圧の反動で,1931年4月の選挙を機会に各地で反乱が起き,6月には王政の廃止が決まります。
共和制下でさまざまな社会政策が打ち出されるものの,共和制を支持する諸派の足並みが揃わなかったためもあって,1933年の選挙では右派が巻き返し,共和制時代に打ち出された政策はことごとく撤回されてしまいます。
1934年に起きた「十月闘争」への苛烈な処置を受け,かつ前回の総選挙での敗北を反省した結果として,左派諸勢力は党派を超えた選挙協力体制である人民戦線を結成して1936年の選挙に臨み,僅差ながら勝利を収めます。こうして左派が再び政権を掌握したものの,この結果を受けて有力な軍人達が共謀し,各地でクーデターを敢行,いわゆるスペイン内乱が始まります。はじめは各地方で反乱の鎮圧に成功していた人民戦線政府でしたが,モロッコでは反乱側が優位に立ったうえ,イタリアとドイツの支援を取りつけてスペイン本土に迫り,内乱は長期戦の様相を呈します。
ヨーロッパ諸国は協議によって,内戦への不介入を決めますが,イギリス,フランスが実際に干渉を避けたのに対し,イタリア,ドイツは協議を公然と無視して反乱側に荷担,これに危機感を深めたソビエトが,人民戦線政府に武器および物資を提供しつつ,義勇兵を組織して支援に出ます。ファシズムに対抗すべく,各国から自由主義者が馳せ参じたことで名高い国際旅団も,コミンテルン主導で結成されたものです。
しかしながら,英仏から支援が受けられなかったうえ,スペイン共産党を通じたソビエトの意向と,アナーキスト諸派との間で路線対立を抱え込んだままの人民戦線政府は,独伊が後押しする反乱側に対して,次第に劣勢に追い込まれ,1938年に降伏します。
反乱の過程で権力を掌握したフランコによる独裁体制が,冷戦体制下でのアメリカとの接近もあって1970年代まで続くことになるスペインですが,2年半以上にわたる内戦は国民と産業を著しく疲弊させました。例えば工業生産が内戦前の水準に戻るのには,1950年までかかったといわれています。内戦の経緯からして,枢軸陣営と親しかったはずのスペインは,国土の荒廃に加え,軍部が最終的なドイツの敗北を予測したためもあって,第二次世界大戦には「不参加」(独ソ戦に義勇兵を送り,資源の供給に協力した程度)を貫きます。
ここでクエスチョンです。独裁体制ということでドイツやイタリアといっしょくたに考えられがちですが,フランコ独裁におけるファランヘ党は,ナチ党やファシスト党と異なり,政権そのものと一体になっていたわけではありません。ヨーロッパにおける枢軸陣営主流と,利害も違えばイデオロギーも微妙に異なるスペインが,史実に相違して少ないダメージで内戦を終えられたなら,そこにはどんな可能性が広がっているのでしょうか。