第二次世界大戦をトータルに再現したストラテジーゲーム「ハーツ オブ アイアンII」で,「それ,アリなの?」という戦争指導を行ってみる本連載。今回はあの,イタリアからお届けします。
イタリアが小国分立状態を脱して統一されたのは1861年。ヨーロッパのほかの大国に比べて,微妙に遅いスタートを切ったことになります。そして,後発近代化国としての経済的なハンデと,求心性の低さ――国論の分裂しやすさと地域利害対立の生じやすさ――が,イタリア政治に終始つきまとう課題となります。
オーストリアの支配を脱して統一を成し遂げた後も,イタリアは本来自国の領土であるべきと考える南チロルやトリエステ,トリエント,フィウメ,ダルマティアなど「未回収のイタリア」をめぐって,オーストリアと対立を続けます。ドイツおよびオーストリア=ハンガリーと同盟関係にあったにもかかわらず,第一次世界大戦においてイタリアが英仏協商側に立って参戦したのも,この「未回収のイタリア」を獲得するためでした。
オーストリア=ハンガリーとの戦闘は長らく一進一退を続けますが,1917年秋に起きたカポレットの戦い(浸透戦術が初めて用いられたことから陸戦史上重要な戦いでもあります)で大敗を喫し,以降守勢に回ったまま終戦を迎えます。
ベルサイユ講和会議での領土交渉は思うに任せず,フィウメ,ダルマティアの領有は失敗に終わります。そして戦後のイタリアを襲ったのは,大規模なインフレと,相次ぐ労働者/小作人の暴動でした。対外的な権威の失墜と,経済的な行き詰まり,貧困層の抵抗増大と社会主義運動の高まりは保守層の危機感を募らせ,お約束ともいえるナショナリズムの台頭へと短絡していきます。その波に乗ったのが,ムッソリーニ率いる後年のファシスト党でした。
議会政治の外側に立ち,労働者/小作人の運動に対するテロルで権力基盤を拡大していったファシスト党は,政権の獲得手段も「ローマ進軍」という実力行使でした。にもかかわらず,時の国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世は,社会主義勢力の増大を恐れてファシストの保守的側面を歓迎,1922年にムッソリーニは首相の座に就きます。
続く選挙法の極端な改正と,それに基づく選挙におけるファシスト党の大勝,さまざまな治安立法を通じて,ドゥーチェ(統領)ムッソリーニの独裁体制が確立していきます。その一方でイタリアは,独裁国家の宿命というべきか,古代ローマ帝国という輝かしい歴史に仮託した国威発揚体制を築き上げ,かつ自国の偉大さと指導者の有能さを証明するための対外戦争へと乗り出していくのです。
エチオピア侵攻,スペイン内乱への干渉は英仏との対立を深め,イタリアは武力で気を吐くナチスに接近していきます。アルバニアへの侵攻に続き,第二次世界大戦にはドイツの同盟国として参戦,ギリシアや北アフリカに手を伸ばしました。
しかしながら,ムッソリーニにとって残念なことに,当時のイタリアは近代ヨーロッパの後発組に過ぎませんでした。例えば枢軸側の軍需物資生産は90%がドイツによるもので,イタリアと日本を合わせて残り10%だったといわれています。ギリシアでも北アフリカでも,いわばドイツ軍の手を無駄に煩わせただけで,はかばかしい戦果は上がりません。
前回引き合いに出した米軍のウェーデマイヤー中将,東アジア方面司令官に転出する前に,ヨーロッパ戦線における米軍の物資供給見積もりを担当した彼は,回想録「第二次大戦に勝者なし」で,いみじくも当時のイタリアについて「そのままにしておいたほうがドイツの行動の自由を奪えて良い」と考えた,と述懐します。つまり米軍の兵站責任者は,イタリアの戦争遂行能力を最初から問題にしていなかったのです。
連合軍は,ウェーデマイヤーに言わせればチャーチルの口車に乗る形で1943年にシチリア島とイタリア半島に侵攻,イタリアを無条件降伏に追いやります。ファシスト党の内部反乱によるムッソリーニの失脚,ヒトラーの指示を受けたオットー・スコルツェニー少佐によるムッソリーニ救出と,イタリア社会共和国の設立などといった経過をたどりつつも,頼みのドイツが劣勢に追い込まれる中で,もはやムッソリーニのイタリアに挽回の余地はありませんでした。
ここで今回のクエスチョンです。ファシズムの功罪をさしあたり論じないとしても,当時のイタリアの国力で,地中海の覇権をイギリスと争うのは無理な相談でした。アメリカまでもが敵に回った状況ではなおさらです。ムッソリーニ体制の,客観的認識を欠いた極端な軍事的冒険主義は,彼の独裁を支える役割を担ったにせよ,果たして政権維持に必要不可欠なものだったのでしょうか?