― 連載 ―


 源義経(牛若丸)の生涯 

Illustration by つるみとしゆき
 源氏と平家が争いの矢面に立った平治の乱(1159年)。この戦いでは平清盛が勝利を収め,源氏の棟梁である源義朝は討ち取られてしまったことから,源氏は存亡の危機を迎えることになった。が,清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)や源義朝の妻である常盤御前の嘆願によって,嫡男の頼朝や義経は助命となり,頼朝は伊豆へ流されて監視下に置かれ,義経は出家させるべく鞍馬山へと送られることになった。
 やがて年月が経つと,機会をうかがっていた頼朝と義経は挙兵し,源氏を再興すべく平家と戦った。長い戦いの末,源氏は壇ノ浦の戦い(1185年)で平宗盛を打ち破ったのだが,この戦いで安徳天皇を始めとする平家一門や諸将は,そのほとんどが入水して果てた。
 こうして平家を滅ぼした源氏だったが,義経は頼朝の許可なしに朝廷から官位を受けたことを発端に頼朝と対立,ついには戦わなければならなくなり,頼朝と袂を分かつ。しかし義経側の旗色は悪く,京都を落ち延びた義経は,かつて交流があり養父ともいえる藤原秀衡を頼って奥州に向かったのであった。
 秀衡は有力な奥州の豪族であったため,度重なる頼朝の圧力を跳ねのけ,義経一行は秀衡のもとで平和な日々を送るが,それも長くは続かない。文治3年(1187年)10月29日に秀衡が死ぬと,後継の泰衡は頼朝の圧力に屈してしまい,義経の住む衣川館を襲ったのである。そのとき,義経は持仏堂に篭り自害したとされている。享年30才であった。

 義経の守り刀 

 義経が自刃したときに使った短刀は,今剣(いまのつるぎ)と呼ばれる短刀だった。製作者は以前に「こちら」で紹介した小狐丸と同じ三条宗近。伝説の名工である。
 資料を調べると,今剣は最初から義経のものとして作られたわけではなく,鞍馬山を祈願のために訪れた宗近が奉納していったものだそうだ。奉納されたときは六尺五寸(約195センチ)もの刀で,今剣という名前は奉納時に僧侶がつけたものらしい。経緯は不明だが,やがて今剣は義経のものとなり,守り刀として義経の懐にあったという。あまりにも資料が少ないうえに,今剣が現存していないのでなんともいえないが,奉納時は六尺五寸だった今剣は,義経の最期では短刀になっているため,おそらく初期の太刀としての今剣はなんらかの事情によって折れたか,当時の義経には大きすぎたため作り直されたと思われる。しかし作り変えられたといっても宗近作の刀だっただけに,かなりの業物であったと推測できる。
 また注目したいのが,守り刀という点。今剣は戦場で振るうためではなく義経を守護する,霊的(?)な刀として存在していたというのだから興味深い。伝説の名工が鍛えて神仏に奉納したとすれば,確かに守り刀としてはうってつけである。なにかしらの加護があってもよさそうだ。義経といえば壇ノ浦では船から船へと飛び移って戦う八艘跳びや,一ノ谷では崖を駆け降りて敵陣を奇襲するなど,当時の常識ではありえない戦略/戦術を駆使して戦ったことで有名だが,源氏を勝利に導いた義経の功績の陰には,今剣の力が作用していたのかもしれない。
 最終的に義経は自害してしまったので,守り刀としての能力に疑問が残らなくもないが,好意的に解釈するならば今剣が最期に守ったものは義経のプライドであったのかもしれない。



■■Murayama(ライター)■■
先日,新宿のジンギスカン屋に行ったMurayamaは,会計時にお店から「ジンギスカンキャラメル」をもらう。これは名前からも想像できるようにジンギスカン味のキャラメルで,ジンギスカン好きにはたまらないアイテムなのだが,名前からも想像できるように,相当やばい代物らしい。納豆以外でこの地球上に食べられないものは存在しないというくらい何でも食べられるMurayamaが,爆笑するほどの味だったという。