― 連載 ―


瓶割刀
 伊東一刀斎 

 伊東一刀斎(伊藤一刀斎とも)は,一刀流の開祖として知られる人物だが,生誕の地,生没年などには諸説あり,非常に謎の多い剣術家である。一説では1550年に伊豆大島に配流された武士の子として生まれ,1632年まで生きたとされている。本名は前原弥五郎といい,若い頃は鬼夜叉,烏天狗などの異名で呼ばれていたことから,精悍な若者だったのだろう。
 師は,中条流を学んで鐘捲流を開いた鐘巻自斎。伊東一刀斎は「妙剣」「絶妙剣」「真剣」「金翅鳥王剣」「独妙剣」といった奥義を伝授されたほか,自ら「払捨刀」(ほっしゃとう),「夢想剣」といった剣技を編み出し,一刀流の開祖となった。生涯で名のある剣士と戦うこと33回。一度も敗北を喫することはなく,関ヶ原以降は隠棲したといわれている。その後,一刀流には多くの分派が生まれ,現在の剣道も一刀流がベースになっている。

 

 瓶割刀 
Illustration by つるみとしゆき

 伊東一刀斎が14歳のとき,富田一放という名のある兵法者と立ち会うことになった。立会人を務めたのは三島神社の神官である矢田織部だったが,伊東一刀斎の見事な勝利に感心した矢田織部は,伊東一刀斎に三島神社に奉納されていた瓶割刀を与えた。
 瓶割刀は,相模の三島神社に奉納された刀で,ある刀工が37日間も拝殿に参拝して鍛えたものだ。奉納されたのちは数年間に渡って神前に吊されていたが,あるとき落下し,下にあった酒瓶を真っ二つにしたことから瓶割刀という名前が付いた。
 また,瓶割刀という名前にふさわしい逸話がもう一つある。富田一放との戦いに勝利した伊東一刀斎は,矢田織部のもとで暮らしていた。やがて勝負に負けたことを逆恨みした富田一放は,7人の刺客を送り込んできた。伊東一刀斎は瓶割刀を振るってこれらを撃退したばかりか,瓶のうしろに隠れた刺客を,瓶ごと真っ二つに切り払ったという。
 以後,瓶割刀は一刀流の宗家の証として継承され,最後は日光東照宮に奉納されたが,その後は行方不明になってしまったらしい。

 

 「払捨刀」と「夢想剣」 

 伊東一刀斎の編み出した代表的な技に「払捨刀」と「夢想剣」がある。どちらも詳細は不明だが,これらの技について,分かっている範囲で紹介していこう。
 まずは「払捨刀」。伊東一刀斎は京都で妾と暮らしていたが,伊東一刀斎に恨みを持つ者が妾を懐柔し,伊東一刀斎の寝込みを襲う計画を立てた。ある晩,妾は伊東一刀斎の刀を隠すと,十数人の刺客を招き入れて蚊帳を切り落とした。刺客は襲いかかったが,伊東一刀斎はすんでのところで蚊帳をよけた。しかし枕元にあったはずの刀がない。そこで暗闇の中で無手のままで立ち回り,斬りかかってきた刀をかわしたばかりか,刀を奪って多数の刺客を打ち払ったという。
 伊東はこの京都の襲撃で「払捨刀」を悟ったといわれている。一説では「払捨刀」は斬り殺すための技術ではなく,足/体さばき駆使しながら,敵の刀を打ち払う防御的な技術であったともいわれている。現代剣道にも「巻き技」といって,竹刀を回転させて相手の竹刀をはじき飛ばす技術があるが,ひょっとしたら似たような技術だったのかもしれない。十数人の敵を相手にした場合,全員を斬り殺そうとすると途中で刃こぼれしてしまったり,刀身に付着した脂肪のせいで切れ味が悪くなってしまい,1本の刀ではとても足りない。そうしたことを考えると,相手の剣を打ち払うなどの手段で戦闘不能にしてしまうほうが合理的といえそうだ。それにしても十数人の敵と戦って,全員を打ち払ったというのだから,その技術たるや驚愕に値するといえるだろう。
 「夢想剣」についても説明しよう。一刀流の極意に心,体,刀を一体化させる境地がある。さらにこれを昇華した境地/技が「夢想剣」と呼ばれるもので,これは殺意や殺気を感じると共に,無意識で敵を切り捨てるという状態/抜き打ち技だ。印象的な逸話が伝わっていないのは残念だが,無念無想の状況で殺気に反応して敵を切り捨ててしまうというのであれば,剣豪としては理想的な状態といえるだろう。
 ちなみに,先ほど一刀流は心,体,刀を一体化させることを重要視していると説明したが,実はこうした境地を「一心刀」と呼び,伊東一刀斎はそこから一刀流と名付けたのだという話がある。

 

アスカロン(Ascalon)

■■Murayama(ライター)■■
剣道経験者のMurayamaは,かつて「巻き技」を実際に食らったことがあるという。自分の竹刀で相手の竹刀を巻き上げて,相手の手から奪い取る(ぽーんと放り投げる)という技だが,本当に竹刀を取られてしまうのが面白くて自分でも練習し,今では本人も巻き技を使えるという。2回転めを鋭くいくのがコツだそうだ。いろんなことができる人だなぁ。