Illustration by つるみとしゆき |
"Alchemy"を「錬金術」と訳してしまった弊害だと思われるが,一般的に錬金術とは,"高価な金を作り出すことを目的とした非科学的な術"と思われている。しかし実際のところ,そうではない。
金はさびることがなく,権力や富の象徴であり,人類はこれをめぐって戦ってきた。ほかにこのような金属はなく,錬金術では金は神の手によってのみ作られると考えられてきた。その金を作るということは,いわば神への挑戦であったわけだ。だからほかにも,人工生命体であるホムンクルスの創造など,錬金術では神への挑戦と思われる実験が多数行われている。
これは余談だが,隠れて錬金術に取り組んでいた科学者は多く,例えば万有引力を発見したアイザック・ニュートンも錬金術を研究していたという資料が死後に見つかっている。偉大なる科学の父は,魔術師でもあったわけだ。
またワインを飲んだ人々が酔ったり,眠くなったりすることに着目した錬金術師達は,"生命"に大きな関係があるのではないかと考えて,ワインを蒸留してその根源を見極めようとした。そうして生まれたのが,ブランデーである。
あまりにも大ざっぱで申し訳ないが,錬金術についてなんとなく分かってもらえたところで,アゾットについて解説しよう。
アゾットは,偉大なる錬金術師として知られたパラケルススが所有していた短剣だ。パラケルススは,1493年にスイスの修道院の街アインジーデルンで,騎士の血を引く医師の父ウィルヘルムと,教会で働く母との間に生まれた。本名はフィリップス・アウレオルス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムで,パラケルススというのは,のちに筆名として使うようになった名前だ。ちなみにパラケルススには,古代ローマの名医,ケルススを超えるという意味がある。
パラケルススの20代は,ヨーロッパを中心に放浪の旅に出て見聞を広めることに費やされ,ドイツとフランスの国境線にあるシュトラスブルクの市民権を得た後に大学教授になったという。
彼の目標は医術と錬金術の融合にあったようで,秘薬を用いた治療によって,数々の奇跡を起こしている。その手腕は実に見事で,100グルテンの懸賞のかかった患者を,1回の治療であっさり完治させてしまったので,クライアントが渋ってしまい,たったの6グルテンしかもらえなかったという話もあるくらいである。
ほかにも貧乏な恋人のために小銭を金貨に変えて(換えて?)あげたり,体が麻痺した少女を秘薬によって歩けるようにしたり,食事をご馳走してくれた人にお礼として鉄の串を金に換えてしまったりといった奇跡が記録として残っている。
ただ腕が優秀であっても政治的な行動は苦手であったようで,当時の医学会を否定するような発言や,やや傲慢な発言なども多かったことから,やがてバーゼルを追われてしまう。その後は各地を転々とし,1541年にザルツブルクで亡くなったらしい。
パラケルススの肖像画は,剣の柄と一緒に描かれたものが多い。パラケルススが大事に持っていた剣はアゾット(Azoth)と呼ばれ,彼は寝るときですら身から離さなかったという。形状は普段から持ち歩けるような短剣で,柄頭には水晶がはめ込まれており,そこには1匹の悪魔が封じ込められていたのだそうだ。パラケルススは必要に応じて,アゾットから悪魔を呼び出し,使役していたという。さらに柄の中には卑金属を金に変えるだけではなく,万能薬としても使われる「賢者の石」が入っていたとも伝えられている。
なおアゾットというネーミングについては,語源的にはアラビア語で水銀を意味する"Azzauq"が変化したとする説のほかに,すべてのアルファベットの始まりを示すAと,ラテン語,ギリシア語,ヘブライ語のそれぞれの終わりを示すz,o,thを合成したものであることから,始まりであり終わりであるという意味が込められているという説もある。かのキリストが自らを「アルファ(ギリシャ文字の最初)でありオメガ(ギリシャ文字の最後)である」と言ったと伝えられているが,アゾットにも似たような意味が込められているという説は非常に興味深い。
パラケルススがアゾットを振るって何かと戦うようなエピソードはほとんど伝わっていないが,どこか秘密めいたアゾットにひかれてしまう人は多いようだ。アゾットが現存しているという話は聞かないが,今日,アゾットという単語は錬金術用語以外に,窒素を示す用語として使われている。後者は錬金術とまったく関係ないとする説もあるが,化学と錬金術の世界は非常に密接な関係にあるので,ひょっとしたら何かつながりがあるのかもしれない。